2009年10月31日土曜日

お金儲けは悪である

私は元来お金儲けは悪と思っている。
面白い事に、
ギリシャ神話では泥棒の神と商売の神は同じである。
きっとこういった金銭感覚は、
農業を基盤にして形成された感覚であり、
農耕民族の文化であり基層でもあると思われる。

だからというわけではないが、
私は額に汗する事なく物を右から左に動かすだけで、
利ざやを稼ぐ行為を賎しい行為と思っている。
しかし、経済が世界を支配している今、
株や債券といったものを駆使し、
その利鞘で大金をせしめるという、
強欲を売りにするような商売が、
大手を振って世界を闊歩している。
その挙げ句、
お金は命の次に、
いやそれ以上に大切だと公言して憚らない人間が増えている。

今、アメリカには、
ファストマネーとスローマネーという言葉があるらしい。
ファストマネーとは麻薬の類いを売買して得る金銭で、
スローマネーとは会社に勤めて得る報酬を意味する。
ファストマネーは命がけである。
何しろアメリカは銃社会だから・・・。
その代わり簡単に大金を手に入れる事が出来るらしい。

ダウンタウンのギャング達の多くは、
そういった経済活動を健全とは思っていない。
なぜなら捕まれば監獄で暮らすことになるから・・。
しかしそういった方法で金銭を稼ぐ行為を止められない。
他に簡単にお金を得られる仕事がないから・・・。
まあ彼らのストリートギャングの勝手な理屈である。

報酬は元来額に汗して働いた者に支払われる。
そういう感覚こそが健全と思うのだが、
物流に代わって金銭取引が世界経済の主流になった昨今、
額に汗して報酬を得るという、
アナログな経済活動を侮る人間が増えている。

彼らをダウンタウンのギャングと同じ次元とはいわないが、
株や債券といった数字を駆使して大金を得るという、
現実の物流経済とは掛離れたビジネスが、
如何にも当たり前のように世界経済を支配し人と物を動かしている。
その挙げ句、そういった欲に振り回された経済活動の失敗の付けを、
実体経済に拘る者たちに払わせてしまうという、
如何にも理不尽な社会現象が出現してしまった。

有能であることは素晴らしいことだが、
そのことをひけらかす行為は下品である。
有能さは社会に奉仕してこそ、その能力が称賛される。
己の私利私欲の為だけにその能力を利用する事は賎しい行為である。
私はそれこそ人が人である為の最も大切な感覚だと思っている。

以前“私がお金を儲けちゃいけないんですか?”と、
報道カメラを前に問い返した男がいた。
彼は金儲けの才能があったらしい。
何しろ日本銀行の総裁までが、
彼の投資会社に金を預けたくらいである。

私は悲しい事にそのとき、
彼の問い掛けに対して何の反論も重い浮かばなかった。
しかし、今なら少しは応答できそうである。
智慧も才能もある人間が、
ひたすら金儲けに走る行為は賎しい事であると・・・。
そういった人間が大勢の人間を前にして、
金を儲けちゃいけないか?と問うのは、
もっと賎しくそれは社会悪に等しい行為だと・・。

確かに世の中きれい事では暮らせない。
いやきれいごとで生きていると、
足元を掬われ兼ねないのが人間社会なのかもしれない。
現に統計では戦争で命を落とす人間より、
自殺者の方がはるかに多いという数字が、
その現実を雄弁に物語っている。

実態とは掛離れた膨大な虚構経済に振り回され、
強欲が正当化されるような社会で、
お金は命の次に、いやそれ以上に大切などと、
公言して憚らない人間が巷に蔓延るような、
そんな社会はとても健全とは思えない。

確かに今の時代、
人が生きる為にお金は大切な存在には違いない。
しかし、人間の命とお金との間には、
何ものにも代え難い人間の尊厳という存在が、
幾重にも重層に折り重なっているのではないだろうか
それは時に愛情であり労りであり、叡智である。
そしてまた、
そういった存在に担保された社会が、
私たちの住む人間社会なのではないだろうか・・。

尊厳ある人間なら
目の前に置かれたパンを貪り食う前に、
ほんの少し立ち止まって考える。
はたして今、私がそのパンを独り占めし貪る行為が、
自らの人としての尊厳を傷つける、
取り返しのつかない事になりはしないだろうか?と・・。

私には強欲がまかり通る経済至上主義は、
信頼関係の崩壊した人間社会の象徴のように思える。
それはまた同時に信頼関係を構築できない人間社会が、
こういった強欲を是とする、
経済至上主義社会を生み出しているようにも思える。

この卵と鶏の負の連鎖を断ち切る為に、
少なくともこの日本という国の中で、
私達一人一人がどうすべきか、
農耕民族である私達には、
自ずとその方向が見えているような気がするのだが・・・。

2009年10月19日月曜日

ちょっと憂鬱な日々

何が原因というわけではないが、
このところちょっと鬱な日々が続いている。
フォーククルセイダーズの加藤氏が自殺した。
何となく気持ちがわかる。
変に同調している自分がいる。

先日先斗町の馴染みの店に立ち寄った。
ママさんもうすぐ齢78歳。
つい一週間程前、
日舞の一人舞台をこなして元気印。
で,焼酎をロックでぐびぐび。
一回り以上年下の私がその勢いに負けて引いてしまう。
やはり鬱な状態が続いている。

病気という程ではない。
それにしても気力が湧かない。
季節から来るものかもしれない。
あまり何事も建設的には考えられない。
原因は今ひとつあるのだが、
その事はあまり考えたくない。

先日、小学校の運動場で、
学区に関わる町内の運動会があった。
持ち回りの組長で弁当係。
それはいいのだが一日中天候は晴れ。
一年分の陽光を浴びたごとく、
顔が茹で蛸のように赤く焼けた。

本当!茹で蛸みたい!
妻がくすくす笑う・・。
当人は笑う気にはなれない。
顔面を違和感が覆う。
顔に熱した薄皮でも貼られた感覚である。

大人も子供も運動場を全速力で走る。
もう私には異次元のような世界である。
邪魔にならないように日陰で待機したのだが、
それでも日差しは容赦ない。
昼に一度、帰宅していま一度シャワーを浴びたが、
日がな一日陽光に照らされたせいか、
顔面だけがやたらに熱い。
お陰で体脂肪はかなり下がったのだが、
残念ながら体重は変わらなかった。

三十年以上この地に住んでいるが、
子供を成さなかったせいか、
町内の事も小学校の事もほとんど知らない。
きっとこのままこの街の事を、
何も知らずに死んで行くのかもしれない。

先日近所の山城公園で死体が発見された。
帰宅途中の車から警察官が団体で歩く姿を見て、
何かあるのはわかったが、
事実は夕刻のニュースで知った。
近くに車を止めてよく散歩する辺りである。

ふとニューヨークのセントラルパークで起こった、
殺人事件が脳裏に蘇る。
あの時は私達がセントラルパークを散歩した翌日だった。
そんなことが起こりそうもない、
紅葉の始まったリスや小鳥の遊ぶ公園内での殺人ということに、
酷く違和感を覚えた。

山城公園は人工的に作られた公園だが、
山の自然は生かされて、
セントラルパークのように広大ではないが、
散歩するには快適に整備されている。
明石からわざわざ死体を捨てにこなくとも・・、
そう思うのは私ばかりではあるまい。

そのうち元気が出たらまたほざきたい。
ちょっと今はぽつぽつ気分。
気勢が上がらない。
まあしかし、
死にたい気分ではない。
まだやりたい事が沢山残っている。

2009年10月5日月曜日

サントリーの角ハイ

この四日は誕生日当年とって61歳。 おめでとうと云われてても嬉しくない。 棺桶にまた一歩近づいているのに面白いわけがない。 それはそうだが、 酒を飲むとなると話は別である。 当人、酒が呑める飲めるぞ!酒が飲めるぞ! (読むにあたって音節付けて欲しい!) で、四日はサントリー角のハイボールを飲みに、 京都駅周辺を歩いた。 なぜサントリー角のハイボールかというと・・。 そのブログ運営会社の推薦する飲み屋で、 ハイボールを飲んだ感想をブログに上梓すると、 何かしらの頂き物があるという。 これに載ったのである。 酒飲んで報酬が得られる。 飲助がそれに載らない手はない。 紹介があったのはもう三週間以上前だが、 忙しさにかまけてなかなか遂行できなかった。 そういう次第で昨日四日、 誕生日を理由に妻から誘いがあった。 帰り連絡するから、 そのハイボールの呑める飲み屋行ってみようと・・。 待ってました!∧∧! 日曜日というのに仕事に出掛けた妻から連絡が入った。 京都駅に五時前に着く急行に乗ると・・。 ちょっと早いと思ったが、 時間の調整などなんとでもなる。 その種の店は年中無休。 インターネットで調べ済みである。 そういったわけで私も同じ電車に飛び乗る。 京都駅に着いたのは五時少し前。 まず始めに向かったのは、 居酒屋ニューエビスノ(屋台風海鮮居酒屋)である。 七条通りに面した一軒家屋のビニール玄関をくぐれば・・。 実のところ七条辺りでは呑んだ事がない。 キャッチフレーズの意味が今少し理解できなかった。 ともあれ京都駅からゆっくり歩けば五時は過ぎる。 きっと開店しているに違いないと、 勝手に思い込みながら、 駅を出て左側の新町筋を歩いて北へ向かう。 間もなく遠目にその店が見えた。 そう思ったのもこちらの思い込みで、 七条通に辿り着いてみると、 道を挟んで少し左手にニューエビスノはあった。 なるほど玄関は透明ビニールの風よけで囲われている。 二人ともこういった風情の屋台は四十年ぶりである。 ちょっと尻込みしないでもなかった。 ビニールを開け中の若い店員に尋ねる。 もうやってますの? すいませ〜〜ん、五時半からなんです・_・。 エエッあと三十分!? もう少ししてまた来てください!! いくら屋台でも三十分早く開けるには無理がある様子。 仕方なく七条を東に向かってぶらぶら歩く。 すると新町を挟んで二三軒行ったところに、 レトロ風な飲み屋が開いている。 三丁目の夕日風とでも形容できそうな・・。 覗くとそこは五時から営業しているという。 その名は“豚とん ホルモン” こういった店も、ん十年ぶりである。 しかし中の店員が若い女性。 元気にうちは五時からで〜〜す! そんな次第で誘い込まれるように入店した。 店内はカウンターが十席と、 その後ろ壁際小さなテーブル席が三つ。 こじんまりとした飲み屋である。 聞くと開店したのはつい一週間前という。 しかも黄金色のサントリー製サーバーが、 カウンター越しに鎮座していた。 ニューエビスノには振られたが、 図らずも初めの一軒は開店ほやほやの、 サントリー角ハイボールの店だった。 そこで数皿の串焼きホルモンを頂く。 妻はちょっと臆していたが、 いざ食してみると何とも皆珍味。 ほほ肉の串焼きなど熊肉を彷彿させる。 サーバーの中ですでに程よく調合された角ハイと、 じつによく調和した味なのである。 しかも、日頃支払う飲み代に比べ割安な事この上なし。 気が付いたらもう六時を過ぎている。 やおら会計を済ませ、ぶらぶらと元来た道を歩く。 共に新町筋を挟んで数軒東と西。 また来たらこの二軒再び梯子しそうである。 続いて再度ニューエビスノ、 若い店員がしきりに謝っていた。 しかしこちらは思わぬ拾い物をして上機嫌。 ここでも角ハイを頂き、 海鮮が名物と聞いているのでそれなりに注文する。 山陰で新鮮な刺身を頂いたばかりの事とて、 敢えて感想文は書かないが、 値段の割にそこそこ新鮮で、 美味しく頂いたのは確かである。 四十年前の京都の、 こういった屋台ではとても考えられないような、 新鮮な海鮮料理が口に入るいい環境には違いない。 そこから歩いて京都駅を超え、 八条口の東端にあるカウンターバー、イルバールを覗く。 もう食べ物は入らないが角ハイを一杯だけ頂く。 店内の風情はまさにニューヨークのカウンターバー。 夕食前に一杯飲んで電車で帰宅・・。 そういったコンセプトなのだろう。 有り難い事に角ハイ一杯半額! 一体いくら呑んだかわからないが、 誕生日と妻に感謝!サントリー角ハイに感謝!

2009年10月4日日曜日

身まかる

辿ること一週間あまり前、

義母の家に同居し、

彼女の世話をしている義妹から連絡があった。

入院先の院長から直接、

親族に連絡をするようにと告げられた・・と。

私達夫婦は仕度を整え、

その夜の七時過ぎに高速に載った。

一路西に向かってひた走る。

目的地まで距離にして450キロばかり、

到着地のETCを出たのは夜の十二時を回った頃だった。

夜間の走行はこれくらいが疲労を蓄積しない限界である

その折、ゲートで初めて夜間割引の存在があることを知った。

通常の半額程の料金で通行したことになる。

つい一月余り前、

土日千円を利用して東北を旅し、

墓参をしてまだ間がないということもあり、

こういった割引ばかりを続いて体験すると、

今まで払っていた正規料金はなんだったのかと首を傾げてしまう。

妻の実家までは高速を出てほんの数キロ。

走行時間五時間半余りで到着することができた。

義母はその実家から二十キロばかりはなれた総合病院のベッドの中。

その足で見舞う程急を要する様態ではないという義妹の説明に、

疲れを考えて一休みすることにした。

夜が開けてから病院を見舞うことにしたのだった。

一休みの後夜の開けやらぬ五時過ぎに国道を走る。

病院へ着いたのは六時前だった。

義母の意識は既に混濁状態にあり、

我々の到着を知って微かに目を開け、

頷く程度の反応が返されるばかりだった。

思うに五年前義母は息子を癌で失い、

失意のうちに葬儀を執り行う義母は、

自らも時を待たずに身まかりそうな程の様相だった。

その様子を見兼ねたこともあってか、

幸いな事に息子の妻が忘れ形見の幼子と共に、

それまで住んでいた家を引き払い、

義母と同居することを望んだ。

その提案は義母にとっては願ってもない申し出でもあった。

それから五年、

忘れ形見である二人の男の子は、

既にかの地にすっかり馴染み、

不安げだった最初の一年とは、

比ぶるべくもないほどに逞しく成長していた。

それに比して義母は、

年々その生命力は衰えるばかりで、

若い時代に肋膜炎を患った折の大量輸血の際、

A型肝炎ウイルスに感染したこともあって、

肝臓には癌細胞の痕跡が散見された。

また同時に糖尿という持病もあって、

すでに腎臓の働きも極端に衰えていたのだった。

そのためこの一年、入退院を繰り返していた義母の様子を、

義妹から様々な形で耳に届いており、

我々夫婦もある程度は覚悟していたのだった。

それでもいざとなれば妻にとっては実の母である。

すでに私の両親を見送り、

最期の親でもある実の母を見送る妻の後ろ姿からは、

語り尽くせない程の悲しみと落胆が伝わってきた。

最期の五年、

共に暮らした子供達にとって、

必ずしも優しいばかりの祖母とはいえなかったが、

それでも幼い二人にとっては、

人生の半分以上共に暮らした祖母であった。

臨終のその時、

二人は泣きながら祖母に縋り付き、

彼女に最期の別れの言葉を手向けたのだった。

不思議なことにその時、

生命反応を示す心電図も脈拍も、

それらほとんど波形が消え掛けていたにも関わらす、

彼らのおばあちゃんは、

これが最期の別れとでもいうように、

一人一人に強く応答したのだった。

義母はいわゆるキャリアウーマンで、

長らく健在だったその母に、

私の妻である姉とかの弟の養育を任せきりにしていた。

その育った環境は妻によると、

まるで年の離れた兄妹のようだったらしい。

そのお陰か義母は、

私達のような我が侭放題のドラ娘夫婦にも寛大で、

俳句を嗜む義母とは、

よく三人で温泉を探しては旅をしたものであった。

この五年は義妹に全てを託し、

糖尿病をも患っているという環境も手伝って、

口に入るものを送るわけにもいかず、

かといって義母も電話を受ける事もままならず、

私達が妻の実家を尋ねた時以外は、

極端に接触する機会は少なくなっていた。

それでも、病院での最期の二日間、

担当医でもある院長の配慮もあり、

ゆっくりと見送る時を得られたのは、

私達夫婦にとっても、

何にも代えがたい貴重な別れの時間であった。

彼女にとって実の母には変わりないのだが、

五年前に、

義弟が癌で急逝した時の苦しみ悲しみに比較すると、

その心の負担は比べようもない程軽く、

何となく私達の親が身まかったというより、

年長の親友が逝くのを傍で見送ったという、

穏やかな気持ちで母を送る事が出来たように、

私達夫婦には思えるのだった。