2009年10月4日日曜日

身まかる

辿ること一週間あまり前、

義母の家に同居し、

彼女の世話をしている義妹から連絡があった。

入院先の院長から直接、

親族に連絡をするようにと告げられた・・と。

私達夫婦は仕度を整え、

その夜の七時過ぎに高速に載った。

一路西に向かってひた走る。

目的地まで距離にして450キロばかり、

到着地のETCを出たのは夜の十二時を回った頃だった。

夜間の走行はこれくらいが疲労を蓄積しない限界である

その折、ゲートで初めて夜間割引の存在があることを知った。

通常の半額程の料金で通行したことになる。

つい一月余り前、

土日千円を利用して東北を旅し、

墓参をしてまだ間がないということもあり、

こういった割引ばかりを続いて体験すると、

今まで払っていた正規料金はなんだったのかと首を傾げてしまう。

妻の実家までは高速を出てほんの数キロ。

走行時間五時間半余りで到着することができた。

義母はその実家から二十キロばかりはなれた総合病院のベッドの中。

その足で見舞う程急を要する様態ではないという義妹の説明に、

疲れを考えて一休みすることにした。

夜が開けてから病院を見舞うことにしたのだった。

一休みの後夜の開けやらぬ五時過ぎに国道を走る。

病院へ着いたのは六時前だった。

義母の意識は既に混濁状態にあり、

我々の到着を知って微かに目を開け、

頷く程度の反応が返されるばかりだった。

思うに五年前義母は息子を癌で失い、

失意のうちに葬儀を執り行う義母は、

自らも時を待たずに身まかりそうな程の様相だった。

その様子を見兼ねたこともあってか、

幸いな事に息子の妻が忘れ形見の幼子と共に、

それまで住んでいた家を引き払い、

義母と同居することを望んだ。

その提案は義母にとっては願ってもない申し出でもあった。

それから五年、

忘れ形見である二人の男の子は、

既にかの地にすっかり馴染み、

不安げだった最初の一年とは、

比ぶるべくもないほどに逞しく成長していた。

それに比して義母は、

年々その生命力は衰えるばかりで、

若い時代に肋膜炎を患った折の大量輸血の際、

A型肝炎ウイルスに感染したこともあって、

肝臓には癌細胞の痕跡が散見された。

また同時に糖尿という持病もあって、

すでに腎臓の働きも極端に衰えていたのだった。

そのためこの一年、入退院を繰り返していた義母の様子を、

義妹から様々な形で耳に届いており、

我々夫婦もある程度は覚悟していたのだった。

それでもいざとなれば妻にとっては実の母である。

すでに私の両親を見送り、

最期の親でもある実の母を見送る妻の後ろ姿からは、

語り尽くせない程の悲しみと落胆が伝わってきた。

最期の五年、

共に暮らした子供達にとって、

必ずしも優しいばかりの祖母とはいえなかったが、

それでも幼い二人にとっては、

人生の半分以上共に暮らした祖母であった。

臨終のその時、

二人は泣きながら祖母に縋り付き、

彼女に最期の別れの言葉を手向けたのだった。

不思議なことにその時、

生命反応を示す心電図も脈拍も、

それらほとんど波形が消え掛けていたにも関わらす、

彼らのおばあちゃんは、

これが最期の別れとでもいうように、

一人一人に強く応答したのだった。

義母はいわゆるキャリアウーマンで、

長らく健在だったその母に、

私の妻である姉とかの弟の養育を任せきりにしていた。

その育った環境は妻によると、

まるで年の離れた兄妹のようだったらしい。

そのお陰か義母は、

私達のような我が侭放題のドラ娘夫婦にも寛大で、

俳句を嗜む義母とは、

よく三人で温泉を探しては旅をしたものであった。

この五年は義妹に全てを託し、

糖尿病をも患っているという環境も手伝って、

口に入るものを送るわけにもいかず、

かといって義母も電話を受ける事もままならず、

私達が妻の実家を尋ねた時以外は、

極端に接触する機会は少なくなっていた。

それでも、病院での最期の二日間、

担当医でもある院長の配慮もあり、

ゆっくりと見送る時を得られたのは、

私達夫婦にとっても、

何にも代えがたい貴重な別れの時間であった。

彼女にとって実の母には変わりないのだが、

五年前に、

義弟が癌で急逝した時の苦しみ悲しみに比較すると、

その心の負担は比べようもない程軽く、

何となく私達の親が身まかったというより、

年長の親友が逝くのを傍で見送ったという、

穏やかな気持ちで母を送る事が出来たように、

私達夫婦には思えるのだった。

0 件のコメント:

コメントを投稿