2009年9月22日火曜日

見ざる聞かざる云わざる

日光東照宮の山門に三匹の猿の彫り物が据えられている。 左甚五郎の作と伝えられているが、 真意の程は定かではない。 この三猿、実は世界中に存在する。 大まかに云えば人に災いや害を成す存在を、 見るな、聞くな、話すなという戒めに使われている。 日本では子供の教育に、 中国では論語の一節に、 アメリカの日曜学校でも、 あるいはガンディーもこの猿を戒めに使っている。 このモチーフは古代エジプトでも使われており、 地域によってその対象は違っているが ある意味、世界共通の文化といえる。 しかし、その発生源となると定かではないらしい。 ところがこの叡智を表す諺が、 ある時期の日本という国では、 必ずしも子供の情操教育の為に使われたわけではなかった。 私の親は私が民主主義国家であるはずのこの日本に存在する、 天皇家の不条理さを唱えると、 必ずやこの言葉を唱えて私の口を塞ごうとした。 第二次大戦以前、 日本の教育では天皇を神と崇め、 天皇家を批判することはタブーだった。 そして、それを声高に唱える者は、 非国民というレッテルを貼られ、 刑罰を受けた時代が長く続いていたのである。 それが原因で私は戦後に産まれたにも拘らず、 特高の目を恐れるという、 親世代の潜在的恐怖がトラウマとなって伝わり、 天皇家の存在の触れる際には大いなる決意が必要であった。 しかし、もはや戦後六十数年経った今、 私は声を大にしてことの是非を問いたい。 民主主義国家というこの日本で、 一度も国民から付託を受けたことのない天皇家が、 なぜ象徴としてその立場を維持できるのか? しかも天皇家は日本国籍ではない、 天皇家独自の籍が日本国民とは別に存在する、 言わば日本国籍外の一家なのである。 その天皇を象徴として、 国民に選ばれた議員である閣僚が、 皇居において天皇から承認状を受け取る。 この如何にも民主主義を蔑ろにした儀式に疑問も差し挟む様子もなく、 当然のように演じる政治家の姿を見るにつけ、 彼らは本当に民主主義を理解して、 国民の代表として政治を行っているのかと疑っている。 天皇裕仁はこの日本という国を先の大戦で敗戦に導いた。 ある意味超一級の戦犯である。 その裕仁を元帥と崇めた日本国軍が、 日本国民の数百万の命を犠牲にした責任を、 自ら明確にする事はなかった。 更にその上アメリカ政府に対して、 自らの身を投げ出すというかたちで命乞いをし、 世界に恥を晒しながら生き延びた。 その結果、 敗戦国という日本の姿を象徴的に具現し、 この日本をじつにアメリカにとって都合のいい、 アメリカ傀儡の民主主義国家にしたのである。 この病理はまた、 戦後のこの国の指導者達にも蔓延し、 責任者のトップが自らの責任を曖昧にし、 罪科を逃れようとする 悪しき病理の礎になったといっても過言ではあるまい。 その症例は自民党の末期の首相経験者を眺めれば、 疑問の余地もなく証明されていると思うのだが・・. 改憲の論議が喧しい。 しかし誰もが天皇家の存在に触れようとはしない。 戦前教育のトラウマが、 あたかも三猿の悪しき戒めのように、 六十数年経たいまも国民のトラウマとなり、 見ざる聞かざる言わざるの呟きが行動を束縛しているのである。 断っておくが、 私は天皇家をこの国から抹殺せよと主張しているのではない。 この日本という国の国民が、 世界の何処にあっても、 私の生まれた日本と云う国は民主主義国家だと、 胸を張れる国になって欲しいだけなのである。 米軍の移転も確かに重要であり、 アフガン給油も現実として大切な事案かもしれない。 しかしそういったことも含めて今、 日本の政治家が最も考えなければならないのは、 土台となるべき国家の象徴を、 国民の負託によって選出する為の、 国民的議論を立ち上げることではないだろうか。 それこそが民主主義国家日本にとって。 最も重要な課題であるように私には思えるのだが・・・。

2009年9月18日金曜日

報道の狂気

今朝のテレビ報道を眺めて私の背筋に悪寒が走った。

一体マスコミは何を持ってして朝の貴重な時間を、

あの元アイドルと称する薬中女の報道で騒ぐのだろうか。

私にはあの報道それ自体が狂気にしか思えなかった。

彼らにとってそうして騒ぐ方がプレゼンスを高め、

かつまた、それが収益に繋がるのかもしれない。

しかしそういって騒ぐ自分達の姿を、

チャンネルの向こう側の市民はどういった視線で眺めているか、

考えようとはしないのだろうか。

自民党がなぜ国民に見捨てられたか、

それは明らかに、

税金を使っておきながら、

お為ごかしで、してやっている!という、

日本国民を見下げる価値観に身を置いたからに他ならない。

今まさにテレビ局の面々は、

視聴率という幻想に振り回され、

視聴者が求めもしない、

無用で下品で下らない報道を垂れ流している。

まさにそれが理由で見捨てられた、

自民党と同じ構造の中に病んでいる。

彼らに自らの姿を、

ほんの少し冷静になって眺める能力はないらしい。

その姿はまるで飢えた獣のように、

あるいは腐った肉にたかるハエやウジのごとく、

只カメラの前にある獲物や食い物を、

集り喰い尽くそうとしている姿なのである。

その浅ましくも狂おしい報道姿勢は、

まさに国民に見捨てられた自民党と同列である。

報道したもの勝ちとでも思っているのか、

自らその力に酔い痴れ、

その力の程をわきまえること無く

傲慢な狂気に満ちたその報道姿勢を、

ひたすら醜くあからさまに曝け出している。

一体彼らは己らが何様のつもりなのだろうか?

面白いネタがあるから報道してやっている。

どうせカメラの向こう側の連中は馬鹿だから、

面白おかしく報道すりゃ文句は云わない。

それで視聴率さえ稼げりゃ一石二鳥。

そうとでも思っていなけりゃ、

朝の貴重な時間を、

小娘の薬物騒ぎなど報道するわけがない。

何ともこの狂気の報道は見苦しい!むさ苦しい!

その映像!下衆で醜悪としか例えようがない。

なら見なけりゃいい・・?

確かにその通り!

しかし朝のニュースの時間、

テレビとほとんど接することのないこの私でも、

ニュースくらいは見たいわさ・・・。

ところがどのチャンネルを捻っても、

もとい捻っちゃいない!

手元でプッシュプッシュ!

薬虫女に集る報道カメラマンの、

へどの出そうな映像ばかりなりけり。

その結果がこの怒り!

一体何処へお鉢を持っていったらいいのか、

皆様とくとご教授いただきたい!

2009年9月14日月曜日

東北紀行 その六 寒河江から那須塩原へ

東北へ旅立つ数日前、
東大路に画廊を持つSさん夫婦が我が家を訪れた。
この九月頃に個展をやりたいと、
昨年度から妻が相談していたからで、
その日程の打ち合わせのために立ち寄ってくれたのだった。

妻はしかしこの夏までに大作を二点仕上げ、
Sさんの画廊に出展する小品の制作にまで、
作業の時間が割けなかったことを詫びた。
そして、個展は二ヶ月ばかり先延ばししてもらうことに落ち着いた。
その折、この八月の最終週に夫の墓参を兼ねて、
東北旅行を計画していることを話したのだった。

Sさんは妻の申し出を快く受諾してくれ、
その頃なら彼は山形の寒河江に滞在しているから、
そこで紹介したい人物がいるので、
是非寒河江に立ち寄るよう勧めてくれた。

松島を離れ高速道に載ったところで妻が携帯を取った。
直ぐに応答があり待ち合わせは夕刻の五時頃と決まった。
東北道から山形自動車道を繋いで二時間あまり。
四時過ぎに寒河江のインターチェンジを下り、
ホテルに到着したのは四時を少し回った頃だった。

ホテルまで市街地を三十分あまり走ったが、
寒河江市内は車も人影も思ったより疎らで、
喧噪の松島から移動して来た我々にとって、
如何にも閑散とした街の風景は、
まるで祭りの後のような印象であった。

宿泊したホテルはその昔、
温泉旅館として営業していた歴史があり、
ホテル専用の源泉があるということだった。
含んだ鉄分で少し赤茶けた湯質はやや固めの肌触りだったが、
市内にあるホテルで温泉に恵まれたのは、
何より有り難いことに違いなかった。

Sさんが是非紹介したいというご夫婦とは、
彼が滞在中に食事をとる料理屋で待ち合わせた。
店の料理は山形と云う土地柄にしては薄味で口に合うと、
Sさんが薦めるように会席風に飾られた食材が、
その一品一品のボリュームの多さに感心させられたものの、
総じて味は控えめで酒を交えて美味しく頂くことが出来た。

寒河江に住むというそのご夫婦は私達と同世代だった。
私が一年間だけ山形の第一小学校へ通ったことを告げると、
奥さんが自分は第四小学校だったと云う。
二つの学校はすごく近いと彼女は細かに説明したが、
私の記憶は一年生の一年だけで、
いかにたどろうとしても全てがもうおぼろげだった。

料理屋にせよ焼鳥屋にせよ、
繁華街に纏まってあるわけではなかったが、
皆ホテルから歩いてたどれる距離内にあった。
特に焼鳥屋は一見それとはわからない、
板塀の造りの民家の中にあり、
土地の人間でなければおいそれと探し当てられないと思えた。

カウンターだけ二十席程の店内は混雑していたが、
肩を寄せあい六人分の席をどうにか確保することが出来た。
店の焼き鳥がうまいことに異論はないが、
そこで出されたトン足の煮込みは、
呼称に捕われた先入観を払拭する程のまさに絶品だった。

とろとろに煮込まれたそれに独特の臭みは一切なく、
一口頬張ったその時の食感はまさに新鮮なマグロの目廻り、
上質なコラーゲンそのものだった。
時間をかけて薄味に煮込んだそのコラーゲンの固まりに、
初めは臆していた妻でさえその味を絶賛した程であった。

酒が進み、話が盛り上がり、
ここには、
ラ・フランスとサクランボ以外何もないと、
ご主人が寒河江の寂れようを嘆いた。
都市生活者が必ずしも豊かとは云えない現実を知って尚、
寂れた地方都市は、
そこに住む住民にとって、
思う程には歓びの少ない地なのかもしれない。

翌日、Sさんの案内で、
寒河江市郊外にある紅花の栽培庭園を見学する。
土地の豪農の屋敷跡を改装して、
その一部で観光用の紅花を栽培していた。

屋敷内で働く婦人達は土地の農家の組合から派遣された方々で、
妻が学生の勉学に使いたいと申し出ると、
彼女達は以外にも快く紅花の種を分けてくれた。
つい最近まで紅花の種が門外不出だったことを思うと、
日本という国の構造的な価値基準の大きな変化を、
目の当たりにする思いであった。

Sさんはそのまま高速を使い、
時間をかけて京都まで走る予定のようだった。
しかし私にとって800キロを超える距離は負担である。
そこで私はS夫婦に途中の那須辺りで一泊して、
それから帰途につきたい旨を申し出た。

その日は土曜日で予約のない宿泊は難しいと思えた。
だが、時期が幸いしたのか塩原温泉の宿に空室が見つかり、
さほど労する事無く部屋を確保出来たのだった。
その時既に昼の二時を過ぎていたが、
寒河江から塩原温泉までは、
東北道を使えば三時間程で移動出来る距離である。
夕刻の五時過ぎ、我々の車は那須塩原の宿に到着した。

2009年9月13日日曜日

東北紀行 その五 松島そして寒河江へ

朝食を終え八時過ぎに鬼首温泉を出発。
国道47号線に迫り出した鳴子温泉郷の巨大歓迎アーチを横目に、
そのまま松島のある石巻まで、
地道を走って二時間あまりの行程だった。

夏休み期間だったが平日ということが幸いしてか、
渋滞に遭うこともなく走行はかなりスムーズだった。
初めての地ということもあり、
土地には不案内で心もとなかった。
しかし、標識を頼りに道なりに走っているうちに、
いつの間にか松島の賑わった観光街に着いていた。 

松島について最初に感じたのは、
観光地化されたその派手な賑わいの雰囲気が、
何ともよく安芸の宮島周辺に似ていたことである。
そのお陰で何処を探索する苦労もなく、
あっさりと遊覧船の出港場所まで辿り着いてしまった。
その呆気なさに返って物足りなさを感じたのだった。

港周辺はさすが観光の松島といった混雑だった。
しかし幸いなことに駐車場には少しの空きが見られ、
不案内な地で探しまわることもなく、
瑞巌寺傍にスムーズに車を止める事が出来た。
そこで初めて知ったのだが、
遊覧船の出入港はまさに瑞巌寺の門前にあるということだった。

私は松島観光をお触り程度でと思っていたが、
妻は折角来たのだから奥松島も見たいという。
そうなると次に出発する船は一時間後。
間の悪いことに奥松島まで回る遊覧船は、
ほんの数分前に出港したばかりだった。

昨日、昼食を抜いて体長がよかった夫婦は、
擦り胡麻と納豆そして甘いズンダ豆が、
一口大の餅に載せて詰め合わせてある一品を、
国道沿いにあった道の駅で購入した。
おやつ程度のカロリーで済まそうと考えたのである。

しかしそこは、瑞巌寺の門前でしかも松島観光の拠点。
安芸の宮島周辺と同様に、
海の幸が豊富であるのをこれ見よがしにディスプレイしている。
私達はそんな食欲をそそるレストランを横目に通り抜け、
足早に瑞巌寺の巨大な山門をくぐった。

瑞巌寺はその高名の通り、
如何にも権力者の庇護を受けて発展した禅寺らしく、
京都の五山に比肩する威容を誇っていた。
その寺内は本堂までの数十メートル、
岩肌をくり貫いた洞窟群に、
五輪塔や笠付塔婆といった墓標が安置されており、
本堂まで散策しながら拝観できるよう柵が巡らされていた。

こういった訪問者を威嚇するような、
権力者の庇護の元に発展した寺社は、
京都に済んでいると、
好むと好まざるとに関わらず何度となく足を運んでいる。
正直、松島まで来てその中を
敢えて拝覧する気にはなれなかった。

入館料を徴収する本堂前でちらりと本堂を垣間見、
夫婦は踵を返してもときた道を引き返した。
門前に並ぶ土産物店をウインドウショッピングしながら、
遊覧船が係留されるチケット売り場まで歩いた。

すると突然に俄か雨。
慌てて門前の一軒で雨宿りをした。
その店内には南部鉄のお土産物が展示してあり、
ちょっと記念にと小物を購入した。
雨はしかしほんの十分程度で通り過ぎた。

こうぶらぶらして時間をつぶしても、
距離にすればほんの数十メートル歩いただけである。
十二時過ぎに出港する奥松島を巡る遊覧船までは、
まだよほど時間には余裕があった。

そこで私達は待合所の中でペットボトルを購入し、
空いた椅子に腰掛けると例の三色餅を頂いた。
妻は納豆の絡んだ餅が苦手だと云う。
どうして?
納豆餅を食べると、
他の全ての餅が糸を引くから・・。
納豆の臭いが鼻につくらしい。

私は粘りも臭いもさほど気にならなかったが、
確かに納豆持ちを先に頂くと粘りが箸に絡み付き、
白胡麻もズンダもみんな糸を引いた。
これこそが東北の文化なのかもしれないと、
そのごちゃ混ぜの味覚を口内に感じながら、
その感覚に馴染めない妻に妙に納得したのだった。

奥松島を巡る遊覧船は十二時を過ぎて出港した。
湾内を一巡する二時間若の航行である。
もう二度と来ることはないと、
二階の特別席を予約した。
別料金を請求されたが、
その分客席は独占状態で、
何とも優雅なクルーズを満喫することが出来た。

松島やああ・・といっても江戸時代の話。
当時の辿り着くまでの苦労を考えると、
その風景に感動するのもわからぬではない。
しかし、車で移動できる現代では、
こういった風景は日本国中、
いたる処で目に触れることが出来る。
便利さが産む不幸かもしれない。

確かに湾内の点在する島の数は多い。
その姿も遠景ながら目を引く美しさがある。
しかしいちいち紹介するガイドの声が煩わしい。
後方で乗客がカモメ相手にえさを撒いている。
水面に落ちた餌をついばむカモメの姿がなんとも不細工。
それにしても船内を吹き抜ける海風はたとえようもなく心地よい。
そのうちその心地よさに包まれて爆睡となった。

経験値として松島その心地よさは絶景であった!
などという冗談はさておき、
二時間かけて巡る程のものとは、
残念ながら思えなかった。

松島観光を終え、
その足で高速に載り山形寒河江市へ向かう。
本当は小野川温泉や肘折温泉に泊まりたかったのだが、
事情があってその日は寒河江駅前のホテルへ宿泊。
そこで楽しい出会いがあった。

2009年9月10日木曜日

東北紀行その四 花巻鉛温泉から鳴子へ

藤三旅館・・。
この旅館に宿泊したいと思ったのはもう三十数年前。
夫婦は温泉が大好きで、
結婚間もない頃から、
何かと理由をつけて温泉に向かって車を走らせていた。
記憶をたどって数え上げれば恐らく百軒は下らない。

とはいえ私達が泊まるのは皆、宿泊料金の廉価な宿。
一万円を目安に予約をするのが夫婦の不文律だった。
目的は温泉だから、
多少料理に問題があっても、
この料金なら妥協できるという考えからである。

インターネットの無かった時代、
温泉紹介の小雑誌を何冊か携えての旅が多かった。
そのモノクロの雑誌に、
老夫婦が古風な玄関脇に並んで写った写真と共に、
かの藤三旅館は紹介されていた。

いつか椀子そばを食べがてら、
ここへ泊まりにいこうね・・というのが、
長年、折に触れての夫婦の話題だった。
その思いが今回叶ったのである。

椀子そばを頂いた後、
盛岡を離れそのまま国道を走り、
道なりに花巻温泉街を横目に通り抜け、
更にやや奥まった道路沿いの谷間を下りた渓流沿いに、
藤三旅館はあった。

到着は午後四時過ぎで、
その玄関構えは、
その昔モノクロの写真でみたのと同じ構えの軒唐破風屋根で、
歴史を感じさせる温泉宿の風情を、
その佇まいに醸し出していた。

旅館は既に代替わりしているようで、
従業員は皆若くその気配りも手際よかった。
私達は三階に宿泊したが、
その部屋は昨年リニューアルされており、
古い設えの部屋をイメージしていた私は少し落胆した。

アルバイトの中居はそんな私を促すと、
そういうお客さんの為に残している部屋もあると、
わざわざ未改装の部屋に案内してくれた。
まさに三十年前に描いた湯治旅館がそこにあった。

谷沿いに立てられている旅館の割に、
館内は私が想像していたよりも広く、
隅々まで掃除も行き届いていた。
湯治ようの浴場は、
一般客用と湯治客用の宿舎の中程に位置しており、
そこを中心に各部屋が廊下沿いに並んで続いていた。

古くから知られているその大浴場は旅館の中心にあり、
廊下の位置から更に十メートルばかり階段を下りた岩場に、
楕円状にタイルで縁取りされた大きな浴場が設えてあった。
そこはこの旅館で私がどうしても浸かりたかった浴槽の一つだった。

しかしその浴槽は想像より深いもので、
深いところで150cmもあり、
本来混浴のところを、
時節柄女性専用に時間割りをしており、
そこで勇んで入浴しようとした妻が、
溺れそうになったと驚く程であった。

お湯はやや熱めで長湯は出来ないが、
その横に少し離れてぬるい壷湯があり、
人によってはそこで休みながら、
何度となく湯治が出来るように配慮されていた。

温泉は四種類あると説明されたが、
その中心の深く熱めの湯殿が圧巻で、
確かに川の瀬が覗ける渓流沿いの湯殿もあるにはあるが、
全ての印象はこの深く谷底に下りるような、
楕円形の立ち湯ばかりが記憶となって残っている。

昼に椀子そばを食べ過ぎたせいで、
旅館の食事はほとんど手つかずのまま終えてしまった。
青森から来ているといった若い中居は、
この旅館の料理は量が多すぎるといってくれたが、
折角の料理が何とも勿体ないことになった。

その罪滅ぼしというわけではないが、
朝食だけはしっかりと頂き、
折角遠野が傍にあるのだからと、
少し北に戻って遠野を訪ねた。

遠野の駅周辺は奇麗に整備され、
語り部の館のような建物が散見されたが、
どれも子供騙しの演出ばかりで、
いずれこの街を維持することに経済的に無理が生じるのではと、
老爺心ながら先を心配する風情だった。

それでも何か記念になるカッパの作り物でもと思い、
少し離れたカッパ淵に立ち寄った。
案の定、周辺はカッパの三文字だけが踊っているばかりで、
古びた寺と意味不明の立て札だけの、
のどかな田園風景を散策することになってしまった。

この三日間、
三食丸々摂取したせいで、
夫婦はもう極端に食欲が減退していた。
で、その日は昼食を抜く。
お陰でその晩宿泊した鬼首温泉の食事は、
その味の濃さに土地柄だからと頷きながら、
どうにか頂くことが出来たのだった。

その鬼首温泉を地図上で発見した折、
随分山の中の寂びたところだろうと勝手に思い込んでいたが、
豈図らんや、
宿は宮城から山形へ抜ける国道沿いにあった。
その昔、温泉も宿も川沿いだったらしいが、
国道を通すにあたってその地を譲り、
今は国道を挟んでその反対側に宿は建てられていた。

旅館のサービスは褒められたものではないが、
料金は実に廉価で、
しかも温泉は重曹泉や硫黄泉といった、
全く異なる泉質の湯殿がそれぞれ4湯湧いており、
それだけでも楽しめる温泉宿ではあった。
翌朝、私達はやや早めに出発した。
ああ松島や!の遊覧船巡りがその目的であった。

2009年9月7日月曜日

東北紀行 其の三 秋田から岩手へ

秋田へ帰省するにあたって、

私は事前に誰にも連絡をとらなかった。

生来、同族とか同窓とか云う、

密着型の人間関係を忌避してきた。

その上、彼の地を離れて四十数年経ってしまっている。

然りとて連絡を取れば皆が気を遣い時間をつくる。

一人だけへの連絡というわけにもいかず、

それを考えると返って煩わしく思ったからである。

昼過ぎに秋田に到着した後、

墓参は私達夫婦だけで済ませる。

住職に法要を託し小一時間程で寺を後にした。

これで当初の目的は果たしたことになる。

その後、案件となっていた所用を済ませると、

ホテルに入りシャワーを浴びる。

いつの間にか時間はもう六時を過ぎていた。

二人でホテルを出るとその足で

そのまま歩いて辿れる飲屋街をぶらぶらとぬう。

案の定、キャッチバーの客引きがうろうろしている。

さすがに彼らも私達とは目を合わそうとはしない。

なんかな〜〜こればかりは全国共通・・。

岩牡蠣の看板に釣られてとある飲み屋へ入る。

料理人は三年ものに岩牡蠣と宣伝するが、

畔蛸で養殖された濃厚な岩牡蠣や、

和歌山、富山で頂いた三年ものに比べると、

とてもとてもその身は料理人と同じで如何にも幼い。

只、その店で売りにしていた比内鶏の串焼きは、

それが本当に比内鶏か定かではないにしろ、

それなりに濃厚な味の焼き鳥ではあった。

しかし、串焼きとも云えないその料金。

それを置いても醤油味の濃さは何とも辛い。

秋田というところは〜〜、

子供の時代から今一つ、

この地には馴染めなかった大きな理由かもしれない。

翌朝、ゆっくりと仕度を整え、

岩手の盛岡へ向かう。

その目的は椀子そば!

二十数年前、かの地を訪ねた折りに食べ損いその恨みを晴らそうという、

蕎麦好きの夫婦の長年の思いがそこにあった。

その後、花巻温泉の藤三旅館で一泊。

この湯治旅館、それこそ三十数年前からその存在を知りながら、

宿泊を果たせずにいた湯治温泉である。

岩手までは秋田自動車道から東北道と、

高速を乗り継いで三時間あまりの道行きである。

正規の料金を払うのは釈然としないが、

地道を走ってでは藤三旅館までの道のりが遠すぎる。

山間をうねるように走る秋田道、

やはり走行車両が極端に少ない。

平日の昼というのにまるで我が専用道のような光景である。

鶴岡から秋田に向かう山形道も高速上の車は疎らだったが、

その数倍の距離があるというのに、

遭遇した車の数は数える程だった。

それでも高速の恩恵にあずかった手前、

無駄とは云い難いが、

こう極端に走行車両が少ない光景に接してみると、

官僚と政治家の馬鹿さ加減が、

如何にも具体的に露呈していると思わざるを得ない。

走行車両は何とも疎らだが、

これら高速の視界に展開する風景は見事というほかない。

収穫の一歩手前に膨らみかけた稲穂の輝く田園風景。

緑豊かな山々の重層に織りなす変幻自在な景色。

日本という国の美しい自然を、

高速で走り抜ける爽快感は、

何ものにも替えられないと感じさせられたのは確かである。

東北道に入るとさすがに車は多い。

利用頻度だけで要不要を云うのは間違いかもしれないが、

それにしてもこの通行車両の数の差は、

あまにもとしか説明しようがない。

盛岡の椀こそば、

妻が事前に調べたそば屋へナビだけが頼りである。

よく裏切られて画面相手に罵声を浴びせるが、

このたびは無事到着することが出来た。

よしよし、くるしゅうない・・。

一階は普通のそば屋・・。

あれれ!と思いきや、

椀子そばは二階でと促される。

なるほど、階段を上がると大広間になっている。

そこに座机がずらりと並んでいる。

ちょっとわくわくきぶんである。

夢に描いた椀子そば、

注ぎ手の若い女性のかけ声が面白い。

あっそれ! よいしょ!などなど、

小声で調子を取って椀そばを注ぎ込む。

妻は四十五杯、私が八十五杯。

少し余裕を持って終了する。

何せそれ以上食べ続けたら運転が不可能になる。

それでも十杯一人前である。

入れれば入ると食べた当人が感心する。

そば屋を後に花巻温泉まで地道を走る。

盛岡の街は高層ビルが少なく空は広い。

その街を走ると、

ラーマン屋の看板がやたら多いが、

椀子そばの看板は何処にも見当たらない。

栄枯盛衰がこんなところにもあるのかもしれない。

盛岡から花巻まで三時間程の農村風景を走り抜ける。

強く感じたのはなだらかな平坦地の少なさである。

庄内平野を抜けてきた我々の目には、

未だ開拓地と思わせるような、

遊びや喜びの空間を感じられない、

山裾に広がる段々状の耕作地であり、

自然の厳しさを強く感じさせられるそんな風景だった。

2009年9月6日日曜日

東北紀行 其の二 湯田川温泉

今回の東北旅行の主たる目的は墓参りであった。

多忙を理由にこの七年ばかり疎遠になっていた。

其の罪滅ぼしとついでに温泉三昧をかねて計画した旅である。

本音を暴けば目的が手段といえなくもない。

途中、鶴岡で一泊するのは、

湯田川温泉の寂れた雰囲気が好きなのと、

そこに住む友人と、

旧交を温めようという重いがあってである。

墓参の地は今少し北の秋田である。

鶴岡の友人は京都の出身であり、

若い時代、京都でよく一緒に呑んだ仲間である。

私が秋田出身で京都に根付き、

彼は仕事の都合で鶴岡に家を建て根付いた。

で、今は私が京都で彼は鶴岡と入れ替わり。

ちょっと奇妙な取り合わせと思うのだが、

今の時代、さほど珍しくもないことかもしれない。

村上のサービスエリアで二時間あまり休み、

九号線を走って鶴岡に着いたのは午前十時頃。

夕刻に湯田川温泉でと約束していた手前、

相手の都合もあると思うと、

もう着いたとは連絡し難い。

そこで、鶴岡の市内をうろうろしながら、

この辺の名物“麦きり”の美味い店を探す。

其の途中、観光案内によってクラゲの水族館を紹介される。

クラゲの発光体採取で有名になった水族館である。

市街地からやや外れた海沿いにそのクラゲ水族館はあった。

夏休みということもあって、

来場者は思いの他多い。

水族館の窓口にいる職員、

何を思ってか、

この水族館の名物はクラゲラーメンと薦める。

おいおい、クラゲ見にきた客にクラゲラーメンはないだろ!

といった神経は彼女にはないようだった。

クラゲ水族館で現物入りのラーメンか〜〜!

とてもその気にはなれなかったね〜〜。

昼前に水族館を出て、

観光案内で紹介された鶴岡城公園近く店を訪れる。

茶屋風も店構えで少し期待しながら麦切りを頂く。

嬉しいことに漬け物がサービス!

大好物の小茄子の漬け物が山盛りに群れていた。

しかし、やはりかなり塩辛い。

一個だけ頂いて感謝!

全てにおいて味は濃いのだが、

漬け物サービスに免じて美味しかったことにして納める。

食事を終え時間を見ると二時少し前、

取りあえず友人に連絡すると到着が早すぎるという。

旅館はまだ準備前出迷惑だろうから、

近所の神社ででも時間潰せという。

しかし妻は取りあえず旅館に連絡。

すると有り難いことにいつでもどうぞという返事。

陣内旅館さん、万歳!温泉だ!

鶴岡の湯田川温泉は、

少し南に位置するあつみ温泉と同じく古い歴史を持つ。

しかし、なぜかあつみ温泉街のように発展はしなかった。

しかも、過去に何度か訪れたことのある、

神社脇の古風な旅館は既に廃業していた。

其の神社前で時代劇の撮影が行われたらしい。

町内からエキストラが集められ、

一時は賑わったが、それだけで終わったと友人は呟く。

宮沢りえが泊まったとかなんとかといっていたが、

何とも閑散とした温泉街の風情が空しく聞こえた。

この温泉、湯質は女性的で柔らかく、

温度も四十度くらいでゆるりと長湯出来る。

遅れて到着した友人と近場の一緒に公衆浴場へ、

そこで地元の先客と会話を交わす。

中の一人、この街は湯しかないと零す。

つい、こんなすばらしい温泉があるのに、

温泉しかないはないんじゃないと、

説教がましいことを云ってしまった。

しかし本当にこの柔らかで優しい湯触りは絶品である。

食事はプロの料理人ではなく、

当旅館の亭主の手作りということであった。

決して盛りつけも包丁さばきも、

京料理と比べて巧みとは云えないが、

持て成しの心がそこはかとなく感じられ、

それなりに楽しめた料理だった。

朝食も同様で味付けはそれなりにであった。

それはそれで楽しみようとは思ったが、

あつみ温泉で宿泊すれば、

たとえ小さな旅館でも膳は料理人の設えである。

料金の割にといった思いが、

ほんの少し心に引っ掛からぬではなかった。

友人はこの寂れようを嘆いていたが、

個人的にはこういった寂れた温泉宿の、

心温まる持て成しの方法も工夫次第で、

一興かもしれないと感じたのだった。

2009年9月5日土曜日

東北紀行 其の一

八月二十三日日曜日、 午後九時を過ぎて京滋バイパスに入る。 高速通行料金、土日の割引制度を最大限に利用しようという目論みである。  このサービスを初めて利用したのはこの七月の初め、 島根県の某都市まで所要があって高速を利用した。 領収書が必要で有人ゲートからetcカードを使った。 その時の料金が二千六百円・・。 思わず“エッ、千円じゃないの!?”と声に出してしまった。 ゲートの職員は申し訳なさそうに、 首都圏の高速は別途料金なんです・・と、 プリントされた明細書を差し出した。 通常は一万円を超える料金がこの価格だったわけで、 決してクレームをつけようと声に出したわけではなかった。 しかし勝手に千円と思い込んでいた私は、 出された料金に反射的に反応したのだった。 それにしても彼の職員が即座に明細書を出したところをみると、 私のようなドライバーが結構いるようである。 京都から東北へたどる高速道路は北陸道が最短である。 他に中央道から長野自動車道を利用する方法もある。 あるいは、関越道、東北道とその気になればいくらでも選択の余地はある。 しかし、名神から北陸道を通って新潟まで高速を走り、 その後九号線を走るのが最短コースのようである。 夜の九時過ぎに京滋バイパスに入り、 名神を通って米原から北陸自動車道をひた走る。 名神を走っている間は十二時前で同走車両も多い。 ところが北陸自動車道に入る辺りから、 時間的な理由もあるが途端に高速内から車両の数が減る。 更に滋賀を抜け福井県を走る頃になると、 高速を走る車はさらに疎らになる。 闇夜を走るのは何とも気分が滅入る。 日頃うるさく感じる助手席のおしゃべりも、 この時ばかりは有り難いと思ってしまう。 この北陸道、 新潟県に入ると途端にトンネルが増える。 十年以上前になるが、 この高速が貫通した初期の時代、 トンネルは対面通行だった。 雨の振り注ぐ中、 間を置いて四十以上も続く対面通行のトンネル群。 中には三キロを超える対面通行のトンネルもあるこの辺りを、 後ろに大型トラックに付かれながら通り抜けた時、 例えようもなくどっぷりとした疲労感に捕われた記憶ばかりが、 強い印象となって残っている。 しかし現在は二車線になっており、 夜道を走るドライバーにはむしろ、 トンネル内の明かりが精神的な助けになっている。 深夜のドライブでもあり、 年齢のこともあり、 途中何度も休憩を取ったのだが、 終点近く似ある村上のサービスエリアに着いたのは、 明け方の五時過ぎだった。 そこから一泊する予定の鶴岡の湯田温泉まで、 どうゆっくり走っても精々三時間。 到着の時間は中途半端なものになってしまった。 そうして夜中の高速を走って知ったことだが、 夜中といっても慣れないサービスエリアでは、 現実として何時間も休憩することも出来ないことである。 妙な疲労感を抱えて高速を下り、 それに続く国道九号線を走ったが、 今度同じ道を走る時は、 富山か新潟で高速を下り、 途中で一泊するところを探そうというのが、 闇夜に北陸道をひた走って得た結論であった。