2009年11月19日木曜日

どぜう

国の東西を問わずうなぎは日本国中で食されるが、

関西ではあまりどじょうを食べる話は聞かない。

なぜと問われれば、

さあ・・余り食べませんな〜〜と答えるばかりで、

聞かれた関西人が困惑するかもしれない。

思うに、それはきっと関西のどじょうが、

関東のそれよりかなり泥臭いからというのが、

一番の原因のような気がする。

なぜかといえば、

琵琶湖ではアオコが発生するせいか、

シジミをみそ汁に入れると、

汽水湖である宍道湖のそれに比べ

いかに泥を吐かせても、

その泥臭いともかび臭いとも例えられる特有の臭いが抜けない。

それでも琵琶湖のシジミは、

佃煮や生姜炊きにしてよく売られている。

古来よりその身に、

薬餌効果のある事が知られているからかもしれない。

しかしそれに比べ、

どじょうにはそういった効果はあまり伝えられていない。

しかも身が柔らかいが故に佃煮にもならない。

その上身が小さく調理する手間が掛かり、

更にその難敵の臭いが抜けないものだから、

余り食卓へは普及しなかったのかも知れない。

同じ川魚でも北国ではあまりフナを食べない。

やはり手数をかけた割に泥臭さが抜けないからと思われる。

関西には琵琶湖という巨大な淡水の水瓶があり、

その恩恵で多彩な淡水魚を食する習慣を生んでいる。

多くは泥臭さを誤摩化す為に甘辛く煮詰め佃煮にするが、

それでも鮒はやはりそれ程美味い魚ではない。

もしなれ鮨にして食する習慣がなければ、

たとえ琵琶湖のニゴロ鮒でも、

これほどまでに珍重される事はなかったと思われる。

上質のうなぎは白焼きで食べても美味しいが、

ほとんどのうなぎは先に蒸すか焼くかの違いこそあれ、

東西を問わず串焼きにして甘辛く味付けする。

それに比べどじょうはうなぎのようにはいかない。

うなぎに比べどうしても身が柔らかく小さい。

しかも独特の泥臭さはどう調理しても消える事はない。

そこで味噌と牛蒡と合わせて調理する事によって、

牛蒡の泥臭さでどじょうの臭いを帳消しにする。

臭いを持って臭いを消すという調理法が考えられたに違いない。

ぐつぐつ詰まったその上に芹を載せ、

山椒を振り掛ければどじょう鍋の出来上がりである。

私はよく出来た食べ物だと思うのだが、

関西ではどじょうをこうして頂く習慣が無いようである。

最もかく言う私も子供の頃、

親が食するどじょう鍋を、

それ程美味いと思って頂いた記憶はない。

過日、妻が東京へ出張の折、

調理済みのどじょう鍋を、

土産にと持ち帰ったのを炊き直して頂いた。

その中身は見事にぐちゃぐちゃに身崩れしていたが、

味噌地立ての出し汁の中で、

崩れて漂うどじょうと牛蒡を食べるうちに、

ふと関西にはないこの食文化に思いを馳せたのだった。

小魚を佃煮にするのは、

その名の通り佃島が発祥といわれるが

それはきっと琵琶湖の小魚も、

同じ歴史を辿ったのだと思われる。

ところがこの中にどじょうは、

その仲間には入れてもらえなかった。

身が柔らかく荷崩れし易いのを敬遠され、

きっと佃煮も適さないからかもしれない。

雪の降る季節、

東北では鯉は甘辛い味付けで骨まで柔らかく炊いて頂く。

しかしよく脂ののったこの時期、

鯉は味噌仕立ての鯉コクにして頂くと、

じつに深みのある濃厚な味わいを醸し出す。

ところが関西では冬の一番寒い時期でも、

あまり鯉こくを食する習慣はないらしい。

甘辛く炊いた鯉でも骨まで柔らかくは炊き込まない。

きっとそこまで煮込んでも泥臭さが残るからかもしれない。

だから関西では味噌仕立ての鯉こくにしたところで、

なかなか美味しくは頂けないようである。

京都には江戸川という、うなぎ料理の専門店がある。

そこへ行けばどじょう鍋を頂けるが、

それが全て腹開きにして小鍋に並んでいる。

妻の東京からのお土産も同様だったが、

私が子供の頃頂いたどじょう汁も鍋も、

その身は丸ごとだったように記憶している。

鍋で煮込んだどじょうを丸ごと口に入れると、

どじょうの骨が歯にこつりと当たる。

表面のぬるりとした感触とこのこつりの骨は、

子供の頃余り美味しいとは思えなかったが、

今となってはこれらの感触が妙に懐かしい。

万人用に食べ易く、

開いて骨を抜いたどじょう鍋を頂いてみると、

口に含んだその身が、

歯にあらがうことなく頼りなげに崩れて行く。

すると、

どじょう鍋ってこんなんじゃなかった・・と、

記憶の襞に隠れていた感触と共に、

郷愁が鮮明になって蘇ったのだった。

2009年10月31日土曜日

お金儲けは悪である

私は元来お金儲けは悪と思っている。
面白い事に、
ギリシャ神話では泥棒の神と商売の神は同じである。
きっとこういった金銭感覚は、
農業を基盤にして形成された感覚であり、
農耕民族の文化であり基層でもあると思われる。

だからというわけではないが、
私は額に汗する事なく物を右から左に動かすだけで、
利ざやを稼ぐ行為を賎しい行為と思っている。
しかし、経済が世界を支配している今、
株や債券といったものを駆使し、
その利鞘で大金をせしめるという、
強欲を売りにするような商売が、
大手を振って世界を闊歩している。
その挙げ句、
お金は命の次に、
いやそれ以上に大切だと公言して憚らない人間が増えている。

今、アメリカには、
ファストマネーとスローマネーという言葉があるらしい。
ファストマネーとは麻薬の類いを売買して得る金銭で、
スローマネーとは会社に勤めて得る報酬を意味する。
ファストマネーは命がけである。
何しろアメリカは銃社会だから・・・。
その代わり簡単に大金を手に入れる事が出来るらしい。

ダウンタウンのギャング達の多くは、
そういった経済活動を健全とは思っていない。
なぜなら捕まれば監獄で暮らすことになるから・・。
しかしそういった方法で金銭を稼ぐ行為を止められない。
他に簡単にお金を得られる仕事がないから・・・。
まあ彼らのストリートギャングの勝手な理屈である。

報酬は元来額に汗して働いた者に支払われる。
そういう感覚こそが健全と思うのだが、
物流に代わって金銭取引が世界経済の主流になった昨今、
額に汗して報酬を得るという、
アナログな経済活動を侮る人間が増えている。

彼らをダウンタウンのギャングと同じ次元とはいわないが、
株や債券といった数字を駆使して大金を得るという、
現実の物流経済とは掛離れたビジネスが、
如何にも当たり前のように世界経済を支配し人と物を動かしている。
その挙げ句、そういった欲に振り回された経済活動の失敗の付けを、
実体経済に拘る者たちに払わせてしまうという、
如何にも理不尽な社会現象が出現してしまった。

有能であることは素晴らしいことだが、
そのことをひけらかす行為は下品である。
有能さは社会に奉仕してこそ、その能力が称賛される。
己の私利私欲の為だけにその能力を利用する事は賎しい行為である。
私はそれこそ人が人である為の最も大切な感覚だと思っている。

以前“私がお金を儲けちゃいけないんですか?”と、
報道カメラを前に問い返した男がいた。
彼は金儲けの才能があったらしい。
何しろ日本銀行の総裁までが、
彼の投資会社に金を預けたくらいである。

私は悲しい事にそのとき、
彼の問い掛けに対して何の反論も重い浮かばなかった。
しかし、今なら少しは応答できそうである。
智慧も才能もある人間が、
ひたすら金儲けに走る行為は賎しい事であると・・・。
そういった人間が大勢の人間を前にして、
金を儲けちゃいけないか?と問うのは、
もっと賎しくそれは社会悪に等しい行為だと・・。

確かに世の中きれい事では暮らせない。
いやきれいごとで生きていると、
足元を掬われ兼ねないのが人間社会なのかもしれない。
現に統計では戦争で命を落とす人間より、
自殺者の方がはるかに多いという数字が、
その現実を雄弁に物語っている。

実態とは掛離れた膨大な虚構経済に振り回され、
強欲が正当化されるような社会で、
お金は命の次に、いやそれ以上に大切などと、
公言して憚らない人間が巷に蔓延るような、
そんな社会はとても健全とは思えない。

確かに今の時代、
人が生きる為にお金は大切な存在には違いない。
しかし、人間の命とお金との間には、
何ものにも代え難い人間の尊厳という存在が、
幾重にも重層に折り重なっているのではないだろうか
それは時に愛情であり労りであり、叡智である。
そしてまた、
そういった存在に担保された社会が、
私たちの住む人間社会なのではないだろうか・・。

尊厳ある人間なら
目の前に置かれたパンを貪り食う前に、
ほんの少し立ち止まって考える。
はたして今、私がそのパンを独り占めし貪る行為が、
自らの人としての尊厳を傷つける、
取り返しのつかない事になりはしないだろうか?と・・。

私には強欲がまかり通る経済至上主義は、
信頼関係の崩壊した人間社会の象徴のように思える。
それはまた同時に信頼関係を構築できない人間社会が、
こういった強欲を是とする、
経済至上主義社会を生み出しているようにも思える。

この卵と鶏の負の連鎖を断ち切る為に、
少なくともこの日本という国の中で、
私達一人一人がどうすべきか、
農耕民族である私達には、
自ずとその方向が見えているような気がするのだが・・・。

2009年10月19日月曜日

ちょっと憂鬱な日々

何が原因というわけではないが、
このところちょっと鬱な日々が続いている。
フォーククルセイダーズの加藤氏が自殺した。
何となく気持ちがわかる。
変に同調している自分がいる。

先日先斗町の馴染みの店に立ち寄った。
ママさんもうすぐ齢78歳。
つい一週間程前、
日舞の一人舞台をこなして元気印。
で,焼酎をロックでぐびぐび。
一回り以上年下の私がその勢いに負けて引いてしまう。
やはり鬱な状態が続いている。

病気という程ではない。
それにしても気力が湧かない。
季節から来るものかもしれない。
あまり何事も建設的には考えられない。
原因は今ひとつあるのだが、
その事はあまり考えたくない。

先日、小学校の運動場で、
学区に関わる町内の運動会があった。
持ち回りの組長で弁当係。
それはいいのだが一日中天候は晴れ。
一年分の陽光を浴びたごとく、
顔が茹で蛸のように赤く焼けた。

本当!茹で蛸みたい!
妻がくすくす笑う・・。
当人は笑う気にはなれない。
顔面を違和感が覆う。
顔に熱した薄皮でも貼られた感覚である。

大人も子供も運動場を全速力で走る。
もう私には異次元のような世界である。
邪魔にならないように日陰で待機したのだが、
それでも日差しは容赦ない。
昼に一度、帰宅していま一度シャワーを浴びたが、
日がな一日陽光に照らされたせいか、
顔面だけがやたらに熱い。
お陰で体脂肪はかなり下がったのだが、
残念ながら体重は変わらなかった。

三十年以上この地に住んでいるが、
子供を成さなかったせいか、
町内の事も小学校の事もほとんど知らない。
きっとこのままこの街の事を、
何も知らずに死んで行くのかもしれない。

先日近所の山城公園で死体が発見された。
帰宅途中の車から警察官が団体で歩く姿を見て、
何かあるのはわかったが、
事実は夕刻のニュースで知った。
近くに車を止めてよく散歩する辺りである。

ふとニューヨークのセントラルパークで起こった、
殺人事件が脳裏に蘇る。
あの時は私達がセントラルパークを散歩した翌日だった。
そんなことが起こりそうもない、
紅葉の始まったリスや小鳥の遊ぶ公園内での殺人ということに、
酷く違和感を覚えた。

山城公園は人工的に作られた公園だが、
山の自然は生かされて、
セントラルパークのように広大ではないが、
散歩するには快適に整備されている。
明石からわざわざ死体を捨てにこなくとも・・、
そう思うのは私ばかりではあるまい。

そのうち元気が出たらまたほざきたい。
ちょっと今はぽつぽつ気分。
気勢が上がらない。
まあしかし、
死にたい気分ではない。
まだやりたい事が沢山残っている。

2009年10月5日月曜日

サントリーの角ハイ

この四日は誕生日当年とって61歳。 おめでとうと云われてても嬉しくない。 棺桶にまた一歩近づいているのに面白いわけがない。 それはそうだが、 酒を飲むとなると話は別である。 当人、酒が呑める飲めるぞ!酒が飲めるぞ! (読むにあたって音節付けて欲しい!) で、四日はサントリー角のハイボールを飲みに、 京都駅周辺を歩いた。 なぜサントリー角のハイボールかというと・・。 そのブログ運営会社の推薦する飲み屋で、 ハイボールを飲んだ感想をブログに上梓すると、 何かしらの頂き物があるという。 これに載ったのである。 酒飲んで報酬が得られる。 飲助がそれに載らない手はない。 紹介があったのはもう三週間以上前だが、 忙しさにかまけてなかなか遂行できなかった。 そういう次第で昨日四日、 誕生日を理由に妻から誘いがあった。 帰り連絡するから、 そのハイボールの呑める飲み屋行ってみようと・・。 待ってました!∧∧! 日曜日というのに仕事に出掛けた妻から連絡が入った。 京都駅に五時前に着く急行に乗ると・・。 ちょっと早いと思ったが、 時間の調整などなんとでもなる。 その種の店は年中無休。 インターネットで調べ済みである。 そういったわけで私も同じ電車に飛び乗る。 京都駅に着いたのは五時少し前。 まず始めに向かったのは、 居酒屋ニューエビスノ(屋台風海鮮居酒屋)である。 七条通りに面した一軒家屋のビニール玄関をくぐれば・・。 実のところ七条辺りでは呑んだ事がない。 キャッチフレーズの意味が今少し理解できなかった。 ともあれ京都駅からゆっくり歩けば五時は過ぎる。 きっと開店しているに違いないと、 勝手に思い込みながら、 駅を出て左側の新町筋を歩いて北へ向かう。 間もなく遠目にその店が見えた。 そう思ったのもこちらの思い込みで、 七条通に辿り着いてみると、 道を挟んで少し左手にニューエビスノはあった。 なるほど玄関は透明ビニールの風よけで囲われている。 二人ともこういった風情の屋台は四十年ぶりである。 ちょっと尻込みしないでもなかった。 ビニールを開け中の若い店員に尋ねる。 もうやってますの? すいませ〜〜ん、五時半からなんです・_・。 エエッあと三十分!? もう少ししてまた来てください!! いくら屋台でも三十分早く開けるには無理がある様子。 仕方なく七条を東に向かってぶらぶら歩く。 すると新町を挟んで二三軒行ったところに、 レトロ風な飲み屋が開いている。 三丁目の夕日風とでも形容できそうな・・。 覗くとそこは五時から営業しているという。 その名は“豚とん ホルモン” こういった店も、ん十年ぶりである。 しかし中の店員が若い女性。 元気にうちは五時からで〜〜す! そんな次第で誘い込まれるように入店した。 店内はカウンターが十席と、 その後ろ壁際小さなテーブル席が三つ。 こじんまりとした飲み屋である。 聞くと開店したのはつい一週間前という。 しかも黄金色のサントリー製サーバーが、 カウンター越しに鎮座していた。 ニューエビスノには振られたが、 図らずも初めの一軒は開店ほやほやの、 サントリー角ハイボールの店だった。 そこで数皿の串焼きホルモンを頂く。 妻はちょっと臆していたが、 いざ食してみると何とも皆珍味。 ほほ肉の串焼きなど熊肉を彷彿させる。 サーバーの中ですでに程よく調合された角ハイと、 じつによく調和した味なのである。 しかも、日頃支払う飲み代に比べ割安な事この上なし。 気が付いたらもう六時を過ぎている。 やおら会計を済ませ、ぶらぶらと元来た道を歩く。 共に新町筋を挟んで数軒東と西。 また来たらこの二軒再び梯子しそうである。 続いて再度ニューエビスノ、 若い店員がしきりに謝っていた。 しかしこちらは思わぬ拾い物をして上機嫌。 ここでも角ハイを頂き、 海鮮が名物と聞いているのでそれなりに注文する。 山陰で新鮮な刺身を頂いたばかりの事とて、 敢えて感想文は書かないが、 値段の割にそこそこ新鮮で、 美味しく頂いたのは確かである。 四十年前の京都の、 こういった屋台ではとても考えられないような、 新鮮な海鮮料理が口に入るいい環境には違いない。 そこから歩いて京都駅を超え、 八条口の東端にあるカウンターバー、イルバールを覗く。 もう食べ物は入らないが角ハイを一杯だけ頂く。 店内の風情はまさにニューヨークのカウンターバー。 夕食前に一杯飲んで電車で帰宅・・。 そういったコンセプトなのだろう。 有り難い事に角ハイ一杯半額! 一体いくら呑んだかわからないが、 誕生日と妻に感謝!サントリー角ハイに感謝!

2009年10月4日日曜日

身まかる

辿ること一週間あまり前、

義母の家に同居し、

彼女の世話をしている義妹から連絡があった。

入院先の院長から直接、

親族に連絡をするようにと告げられた・・と。

私達夫婦は仕度を整え、

その夜の七時過ぎに高速に載った。

一路西に向かってひた走る。

目的地まで距離にして450キロばかり、

到着地のETCを出たのは夜の十二時を回った頃だった。

夜間の走行はこれくらいが疲労を蓄積しない限界である

その折、ゲートで初めて夜間割引の存在があることを知った。

通常の半額程の料金で通行したことになる。

つい一月余り前、

土日千円を利用して東北を旅し、

墓参をしてまだ間がないということもあり、

こういった割引ばかりを続いて体験すると、

今まで払っていた正規料金はなんだったのかと首を傾げてしまう。

妻の実家までは高速を出てほんの数キロ。

走行時間五時間半余りで到着することができた。

義母はその実家から二十キロばかりはなれた総合病院のベッドの中。

その足で見舞う程急を要する様態ではないという義妹の説明に、

疲れを考えて一休みすることにした。

夜が開けてから病院を見舞うことにしたのだった。

一休みの後夜の開けやらぬ五時過ぎに国道を走る。

病院へ着いたのは六時前だった。

義母の意識は既に混濁状態にあり、

我々の到着を知って微かに目を開け、

頷く程度の反応が返されるばかりだった。

思うに五年前義母は息子を癌で失い、

失意のうちに葬儀を執り行う義母は、

自らも時を待たずに身まかりそうな程の様相だった。

その様子を見兼ねたこともあってか、

幸いな事に息子の妻が忘れ形見の幼子と共に、

それまで住んでいた家を引き払い、

義母と同居することを望んだ。

その提案は義母にとっては願ってもない申し出でもあった。

それから五年、

忘れ形見である二人の男の子は、

既にかの地にすっかり馴染み、

不安げだった最初の一年とは、

比ぶるべくもないほどに逞しく成長していた。

それに比して義母は、

年々その生命力は衰えるばかりで、

若い時代に肋膜炎を患った折の大量輸血の際、

A型肝炎ウイルスに感染したこともあって、

肝臓には癌細胞の痕跡が散見された。

また同時に糖尿という持病もあって、

すでに腎臓の働きも極端に衰えていたのだった。

そのためこの一年、入退院を繰り返していた義母の様子を、

義妹から様々な形で耳に届いており、

我々夫婦もある程度は覚悟していたのだった。

それでもいざとなれば妻にとっては実の母である。

すでに私の両親を見送り、

最期の親でもある実の母を見送る妻の後ろ姿からは、

語り尽くせない程の悲しみと落胆が伝わってきた。

最期の五年、

共に暮らした子供達にとって、

必ずしも優しいばかりの祖母とはいえなかったが、

それでも幼い二人にとっては、

人生の半分以上共に暮らした祖母であった。

臨終のその時、

二人は泣きながら祖母に縋り付き、

彼女に最期の別れの言葉を手向けたのだった。

不思議なことにその時、

生命反応を示す心電図も脈拍も、

それらほとんど波形が消え掛けていたにも関わらす、

彼らのおばあちゃんは、

これが最期の別れとでもいうように、

一人一人に強く応答したのだった。

義母はいわゆるキャリアウーマンで、

長らく健在だったその母に、

私の妻である姉とかの弟の養育を任せきりにしていた。

その育った環境は妻によると、

まるで年の離れた兄妹のようだったらしい。

そのお陰か義母は、

私達のような我が侭放題のドラ娘夫婦にも寛大で、

俳句を嗜む義母とは、

よく三人で温泉を探しては旅をしたものであった。

この五年は義妹に全てを託し、

糖尿病をも患っているという環境も手伝って、

口に入るものを送るわけにもいかず、

かといって義母も電話を受ける事もままならず、

私達が妻の実家を尋ねた時以外は、

極端に接触する機会は少なくなっていた。

それでも、病院での最期の二日間、

担当医でもある院長の配慮もあり、

ゆっくりと見送る時を得られたのは、

私達夫婦にとっても、

何にも代えがたい貴重な別れの時間であった。

彼女にとって実の母には変わりないのだが、

五年前に、

義弟が癌で急逝した時の苦しみ悲しみに比較すると、

その心の負担は比べようもない程軽く、

何となく私達の親が身まかったというより、

年長の親友が逝くのを傍で見送ったという、

穏やかな気持ちで母を送る事が出来たように、

私達夫婦には思えるのだった。

2009年9月22日火曜日

見ざる聞かざる云わざる

日光東照宮の山門に三匹の猿の彫り物が据えられている。 左甚五郎の作と伝えられているが、 真意の程は定かではない。 この三猿、実は世界中に存在する。 大まかに云えば人に災いや害を成す存在を、 見るな、聞くな、話すなという戒めに使われている。 日本では子供の教育に、 中国では論語の一節に、 アメリカの日曜学校でも、 あるいはガンディーもこの猿を戒めに使っている。 このモチーフは古代エジプトでも使われており、 地域によってその対象は違っているが ある意味、世界共通の文化といえる。 しかし、その発生源となると定かではないらしい。 ところがこの叡智を表す諺が、 ある時期の日本という国では、 必ずしも子供の情操教育の為に使われたわけではなかった。 私の親は私が民主主義国家であるはずのこの日本に存在する、 天皇家の不条理さを唱えると、 必ずやこの言葉を唱えて私の口を塞ごうとした。 第二次大戦以前、 日本の教育では天皇を神と崇め、 天皇家を批判することはタブーだった。 そして、それを声高に唱える者は、 非国民というレッテルを貼られ、 刑罰を受けた時代が長く続いていたのである。 それが原因で私は戦後に産まれたにも拘らず、 特高の目を恐れるという、 親世代の潜在的恐怖がトラウマとなって伝わり、 天皇家の存在の触れる際には大いなる決意が必要であった。 しかし、もはや戦後六十数年経った今、 私は声を大にしてことの是非を問いたい。 民主主義国家というこの日本で、 一度も国民から付託を受けたことのない天皇家が、 なぜ象徴としてその立場を維持できるのか? しかも天皇家は日本国籍ではない、 天皇家独自の籍が日本国民とは別に存在する、 言わば日本国籍外の一家なのである。 その天皇を象徴として、 国民に選ばれた議員である閣僚が、 皇居において天皇から承認状を受け取る。 この如何にも民主主義を蔑ろにした儀式に疑問も差し挟む様子もなく、 当然のように演じる政治家の姿を見るにつけ、 彼らは本当に民主主義を理解して、 国民の代表として政治を行っているのかと疑っている。 天皇裕仁はこの日本という国を先の大戦で敗戦に導いた。 ある意味超一級の戦犯である。 その裕仁を元帥と崇めた日本国軍が、 日本国民の数百万の命を犠牲にした責任を、 自ら明確にする事はなかった。 更にその上アメリカ政府に対して、 自らの身を投げ出すというかたちで命乞いをし、 世界に恥を晒しながら生き延びた。 その結果、 敗戦国という日本の姿を象徴的に具現し、 この日本をじつにアメリカにとって都合のいい、 アメリカ傀儡の民主主義国家にしたのである。 この病理はまた、 戦後のこの国の指導者達にも蔓延し、 責任者のトップが自らの責任を曖昧にし、 罪科を逃れようとする 悪しき病理の礎になったといっても過言ではあるまい。 その症例は自民党の末期の首相経験者を眺めれば、 疑問の余地もなく証明されていると思うのだが・・. 改憲の論議が喧しい。 しかし誰もが天皇家の存在に触れようとはしない。 戦前教育のトラウマが、 あたかも三猿の悪しき戒めのように、 六十数年経たいまも国民のトラウマとなり、 見ざる聞かざる言わざるの呟きが行動を束縛しているのである。 断っておくが、 私は天皇家をこの国から抹殺せよと主張しているのではない。 この日本という国の国民が、 世界の何処にあっても、 私の生まれた日本と云う国は民主主義国家だと、 胸を張れる国になって欲しいだけなのである。 米軍の移転も確かに重要であり、 アフガン給油も現実として大切な事案かもしれない。 しかしそういったことも含めて今、 日本の政治家が最も考えなければならないのは、 土台となるべき国家の象徴を、 国民の負託によって選出する為の、 国民的議論を立ち上げることではないだろうか。 それこそが民主主義国家日本にとって。 最も重要な課題であるように私には思えるのだが・・・。

2009年9月18日金曜日

報道の狂気

今朝のテレビ報道を眺めて私の背筋に悪寒が走った。

一体マスコミは何を持ってして朝の貴重な時間を、

あの元アイドルと称する薬中女の報道で騒ぐのだろうか。

私にはあの報道それ自体が狂気にしか思えなかった。

彼らにとってそうして騒ぐ方がプレゼンスを高め、

かつまた、それが収益に繋がるのかもしれない。

しかしそういって騒ぐ自分達の姿を、

チャンネルの向こう側の市民はどういった視線で眺めているか、

考えようとはしないのだろうか。

自民党がなぜ国民に見捨てられたか、

それは明らかに、

税金を使っておきながら、

お為ごかしで、してやっている!という、

日本国民を見下げる価値観に身を置いたからに他ならない。

今まさにテレビ局の面々は、

視聴率という幻想に振り回され、

視聴者が求めもしない、

無用で下品で下らない報道を垂れ流している。

まさにそれが理由で見捨てられた、

自民党と同じ構造の中に病んでいる。

彼らに自らの姿を、

ほんの少し冷静になって眺める能力はないらしい。

その姿はまるで飢えた獣のように、

あるいは腐った肉にたかるハエやウジのごとく、

只カメラの前にある獲物や食い物を、

集り喰い尽くそうとしている姿なのである。

その浅ましくも狂おしい報道姿勢は、

まさに国民に見捨てられた自民党と同列である。

報道したもの勝ちとでも思っているのか、

自らその力に酔い痴れ、

その力の程をわきまえること無く

傲慢な狂気に満ちたその報道姿勢を、

ひたすら醜くあからさまに曝け出している。

一体彼らは己らが何様のつもりなのだろうか?

面白いネタがあるから報道してやっている。

どうせカメラの向こう側の連中は馬鹿だから、

面白おかしく報道すりゃ文句は云わない。

それで視聴率さえ稼げりゃ一石二鳥。

そうとでも思っていなけりゃ、

朝の貴重な時間を、

小娘の薬物騒ぎなど報道するわけがない。

何ともこの狂気の報道は見苦しい!むさ苦しい!

その映像!下衆で醜悪としか例えようがない。

なら見なけりゃいい・・?

確かにその通り!

しかし朝のニュースの時間、

テレビとほとんど接することのないこの私でも、

ニュースくらいは見たいわさ・・・。

ところがどのチャンネルを捻っても、

もとい捻っちゃいない!

手元でプッシュプッシュ!

薬虫女に集る報道カメラマンの、

へどの出そうな映像ばかりなりけり。

その結果がこの怒り!

一体何処へお鉢を持っていったらいいのか、

皆様とくとご教授いただきたい!

2009年9月14日月曜日

東北紀行 その六 寒河江から那須塩原へ

東北へ旅立つ数日前、
東大路に画廊を持つSさん夫婦が我が家を訪れた。
この九月頃に個展をやりたいと、
昨年度から妻が相談していたからで、
その日程の打ち合わせのために立ち寄ってくれたのだった。

妻はしかしこの夏までに大作を二点仕上げ、
Sさんの画廊に出展する小品の制作にまで、
作業の時間が割けなかったことを詫びた。
そして、個展は二ヶ月ばかり先延ばししてもらうことに落ち着いた。
その折、この八月の最終週に夫の墓参を兼ねて、
東北旅行を計画していることを話したのだった。

Sさんは妻の申し出を快く受諾してくれ、
その頃なら彼は山形の寒河江に滞在しているから、
そこで紹介したい人物がいるので、
是非寒河江に立ち寄るよう勧めてくれた。

松島を離れ高速道に載ったところで妻が携帯を取った。
直ぐに応答があり待ち合わせは夕刻の五時頃と決まった。
東北道から山形自動車道を繋いで二時間あまり。
四時過ぎに寒河江のインターチェンジを下り、
ホテルに到着したのは四時を少し回った頃だった。

ホテルまで市街地を三十分あまり走ったが、
寒河江市内は車も人影も思ったより疎らで、
喧噪の松島から移動して来た我々にとって、
如何にも閑散とした街の風景は、
まるで祭りの後のような印象であった。

宿泊したホテルはその昔、
温泉旅館として営業していた歴史があり、
ホテル専用の源泉があるということだった。
含んだ鉄分で少し赤茶けた湯質はやや固めの肌触りだったが、
市内にあるホテルで温泉に恵まれたのは、
何より有り難いことに違いなかった。

Sさんが是非紹介したいというご夫婦とは、
彼が滞在中に食事をとる料理屋で待ち合わせた。
店の料理は山形と云う土地柄にしては薄味で口に合うと、
Sさんが薦めるように会席風に飾られた食材が、
その一品一品のボリュームの多さに感心させられたものの、
総じて味は控えめで酒を交えて美味しく頂くことが出来た。

寒河江に住むというそのご夫婦は私達と同世代だった。
私が一年間だけ山形の第一小学校へ通ったことを告げると、
奥さんが自分は第四小学校だったと云う。
二つの学校はすごく近いと彼女は細かに説明したが、
私の記憶は一年生の一年だけで、
いかにたどろうとしても全てがもうおぼろげだった。

料理屋にせよ焼鳥屋にせよ、
繁華街に纏まってあるわけではなかったが、
皆ホテルから歩いてたどれる距離内にあった。
特に焼鳥屋は一見それとはわからない、
板塀の造りの民家の中にあり、
土地の人間でなければおいそれと探し当てられないと思えた。

カウンターだけ二十席程の店内は混雑していたが、
肩を寄せあい六人分の席をどうにか確保することが出来た。
店の焼き鳥がうまいことに異論はないが、
そこで出されたトン足の煮込みは、
呼称に捕われた先入観を払拭する程のまさに絶品だった。

とろとろに煮込まれたそれに独特の臭みは一切なく、
一口頬張ったその時の食感はまさに新鮮なマグロの目廻り、
上質なコラーゲンそのものだった。
時間をかけて薄味に煮込んだそのコラーゲンの固まりに、
初めは臆していた妻でさえその味を絶賛した程であった。

酒が進み、話が盛り上がり、
ここには、
ラ・フランスとサクランボ以外何もないと、
ご主人が寒河江の寂れようを嘆いた。
都市生活者が必ずしも豊かとは云えない現実を知って尚、
寂れた地方都市は、
そこに住む住民にとって、
思う程には歓びの少ない地なのかもしれない。

翌日、Sさんの案内で、
寒河江市郊外にある紅花の栽培庭園を見学する。
土地の豪農の屋敷跡を改装して、
その一部で観光用の紅花を栽培していた。

屋敷内で働く婦人達は土地の農家の組合から派遣された方々で、
妻が学生の勉学に使いたいと申し出ると、
彼女達は以外にも快く紅花の種を分けてくれた。
つい最近まで紅花の種が門外不出だったことを思うと、
日本という国の構造的な価値基準の大きな変化を、
目の当たりにする思いであった。

Sさんはそのまま高速を使い、
時間をかけて京都まで走る予定のようだった。
しかし私にとって800キロを超える距離は負担である。
そこで私はS夫婦に途中の那須辺りで一泊して、
それから帰途につきたい旨を申し出た。

その日は土曜日で予約のない宿泊は難しいと思えた。
だが、時期が幸いしたのか塩原温泉の宿に空室が見つかり、
さほど労する事無く部屋を確保出来たのだった。
その時既に昼の二時を過ぎていたが、
寒河江から塩原温泉までは、
東北道を使えば三時間程で移動出来る距離である。
夕刻の五時過ぎ、我々の車は那須塩原の宿に到着した。

2009年9月13日日曜日

東北紀行 その五 松島そして寒河江へ

朝食を終え八時過ぎに鬼首温泉を出発。
国道47号線に迫り出した鳴子温泉郷の巨大歓迎アーチを横目に、
そのまま松島のある石巻まで、
地道を走って二時間あまりの行程だった。

夏休み期間だったが平日ということが幸いしてか、
渋滞に遭うこともなく走行はかなりスムーズだった。
初めての地ということもあり、
土地には不案内で心もとなかった。
しかし、標識を頼りに道なりに走っているうちに、
いつの間にか松島の賑わった観光街に着いていた。 

松島について最初に感じたのは、
観光地化されたその派手な賑わいの雰囲気が、
何ともよく安芸の宮島周辺に似ていたことである。
そのお陰で何処を探索する苦労もなく、
あっさりと遊覧船の出港場所まで辿り着いてしまった。
その呆気なさに返って物足りなさを感じたのだった。

港周辺はさすが観光の松島といった混雑だった。
しかし幸いなことに駐車場には少しの空きが見られ、
不案内な地で探しまわることもなく、
瑞巌寺傍にスムーズに車を止める事が出来た。
そこで初めて知ったのだが、
遊覧船の出入港はまさに瑞巌寺の門前にあるということだった。

私は松島観光をお触り程度でと思っていたが、
妻は折角来たのだから奥松島も見たいという。
そうなると次に出発する船は一時間後。
間の悪いことに奥松島まで回る遊覧船は、
ほんの数分前に出港したばかりだった。

昨日、昼食を抜いて体長がよかった夫婦は、
擦り胡麻と納豆そして甘いズンダ豆が、
一口大の餅に載せて詰め合わせてある一品を、
国道沿いにあった道の駅で購入した。
おやつ程度のカロリーで済まそうと考えたのである。

しかしそこは、瑞巌寺の門前でしかも松島観光の拠点。
安芸の宮島周辺と同様に、
海の幸が豊富であるのをこれ見よがしにディスプレイしている。
私達はそんな食欲をそそるレストランを横目に通り抜け、
足早に瑞巌寺の巨大な山門をくぐった。

瑞巌寺はその高名の通り、
如何にも権力者の庇護を受けて発展した禅寺らしく、
京都の五山に比肩する威容を誇っていた。
その寺内は本堂までの数十メートル、
岩肌をくり貫いた洞窟群に、
五輪塔や笠付塔婆といった墓標が安置されており、
本堂まで散策しながら拝観できるよう柵が巡らされていた。

こういった訪問者を威嚇するような、
権力者の庇護の元に発展した寺社は、
京都に済んでいると、
好むと好まざるとに関わらず何度となく足を運んでいる。
正直、松島まで来てその中を
敢えて拝覧する気にはなれなかった。

入館料を徴収する本堂前でちらりと本堂を垣間見、
夫婦は踵を返してもときた道を引き返した。
門前に並ぶ土産物店をウインドウショッピングしながら、
遊覧船が係留されるチケット売り場まで歩いた。

すると突然に俄か雨。
慌てて門前の一軒で雨宿りをした。
その店内には南部鉄のお土産物が展示してあり、
ちょっと記念にと小物を購入した。
雨はしかしほんの十分程度で通り過ぎた。

こうぶらぶらして時間をつぶしても、
距離にすればほんの数十メートル歩いただけである。
十二時過ぎに出港する奥松島を巡る遊覧船までは、
まだよほど時間には余裕があった。

そこで私達は待合所の中でペットボトルを購入し、
空いた椅子に腰掛けると例の三色餅を頂いた。
妻は納豆の絡んだ餅が苦手だと云う。
どうして?
納豆餅を食べると、
他の全ての餅が糸を引くから・・。
納豆の臭いが鼻につくらしい。

私は粘りも臭いもさほど気にならなかったが、
確かに納豆持ちを先に頂くと粘りが箸に絡み付き、
白胡麻もズンダもみんな糸を引いた。
これこそが東北の文化なのかもしれないと、
そのごちゃ混ぜの味覚を口内に感じながら、
その感覚に馴染めない妻に妙に納得したのだった。

奥松島を巡る遊覧船は十二時を過ぎて出港した。
湾内を一巡する二時間若の航行である。
もう二度と来ることはないと、
二階の特別席を予約した。
別料金を請求されたが、
その分客席は独占状態で、
何とも優雅なクルーズを満喫することが出来た。

松島やああ・・といっても江戸時代の話。
当時の辿り着くまでの苦労を考えると、
その風景に感動するのもわからぬではない。
しかし、車で移動できる現代では、
こういった風景は日本国中、
いたる処で目に触れることが出来る。
便利さが産む不幸かもしれない。

確かに湾内の点在する島の数は多い。
その姿も遠景ながら目を引く美しさがある。
しかしいちいち紹介するガイドの声が煩わしい。
後方で乗客がカモメ相手にえさを撒いている。
水面に落ちた餌をついばむカモメの姿がなんとも不細工。
それにしても船内を吹き抜ける海風はたとえようもなく心地よい。
そのうちその心地よさに包まれて爆睡となった。

経験値として松島その心地よさは絶景であった!
などという冗談はさておき、
二時間かけて巡る程のものとは、
残念ながら思えなかった。

松島観光を終え、
その足で高速に載り山形寒河江市へ向かう。
本当は小野川温泉や肘折温泉に泊まりたかったのだが、
事情があってその日は寒河江駅前のホテルへ宿泊。
そこで楽しい出会いがあった。

2009年9月10日木曜日

東北紀行その四 花巻鉛温泉から鳴子へ

藤三旅館・・。
この旅館に宿泊したいと思ったのはもう三十数年前。
夫婦は温泉が大好きで、
結婚間もない頃から、
何かと理由をつけて温泉に向かって車を走らせていた。
記憶をたどって数え上げれば恐らく百軒は下らない。

とはいえ私達が泊まるのは皆、宿泊料金の廉価な宿。
一万円を目安に予約をするのが夫婦の不文律だった。
目的は温泉だから、
多少料理に問題があっても、
この料金なら妥協できるという考えからである。

インターネットの無かった時代、
温泉紹介の小雑誌を何冊か携えての旅が多かった。
そのモノクロの雑誌に、
老夫婦が古風な玄関脇に並んで写った写真と共に、
かの藤三旅館は紹介されていた。

いつか椀子そばを食べがてら、
ここへ泊まりにいこうね・・というのが、
長年、折に触れての夫婦の話題だった。
その思いが今回叶ったのである。

椀子そばを頂いた後、
盛岡を離れそのまま国道を走り、
道なりに花巻温泉街を横目に通り抜け、
更にやや奥まった道路沿いの谷間を下りた渓流沿いに、
藤三旅館はあった。

到着は午後四時過ぎで、
その玄関構えは、
その昔モノクロの写真でみたのと同じ構えの軒唐破風屋根で、
歴史を感じさせる温泉宿の風情を、
その佇まいに醸し出していた。

旅館は既に代替わりしているようで、
従業員は皆若くその気配りも手際よかった。
私達は三階に宿泊したが、
その部屋は昨年リニューアルされており、
古い設えの部屋をイメージしていた私は少し落胆した。

アルバイトの中居はそんな私を促すと、
そういうお客さんの為に残している部屋もあると、
わざわざ未改装の部屋に案内してくれた。
まさに三十年前に描いた湯治旅館がそこにあった。

谷沿いに立てられている旅館の割に、
館内は私が想像していたよりも広く、
隅々まで掃除も行き届いていた。
湯治ようの浴場は、
一般客用と湯治客用の宿舎の中程に位置しており、
そこを中心に各部屋が廊下沿いに並んで続いていた。

古くから知られているその大浴場は旅館の中心にあり、
廊下の位置から更に十メートルばかり階段を下りた岩場に、
楕円状にタイルで縁取りされた大きな浴場が設えてあった。
そこはこの旅館で私がどうしても浸かりたかった浴槽の一つだった。

しかしその浴槽は想像より深いもので、
深いところで150cmもあり、
本来混浴のところを、
時節柄女性専用に時間割りをしており、
そこで勇んで入浴しようとした妻が、
溺れそうになったと驚く程であった。

お湯はやや熱めで長湯は出来ないが、
その横に少し離れてぬるい壷湯があり、
人によってはそこで休みながら、
何度となく湯治が出来るように配慮されていた。

温泉は四種類あると説明されたが、
その中心の深く熱めの湯殿が圧巻で、
確かに川の瀬が覗ける渓流沿いの湯殿もあるにはあるが、
全ての印象はこの深く谷底に下りるような、
楕円形の立ち湯ばかりが記憶となって残っている。

昼に椀子そばを食べ過ぎたせいで、
旅館の食事はほとんど手つかずのまま終えてしまった。
青森から来ているといった若い中居は、
この旅館の料理は量が多すぎるといってくれたが、
折角の料理が何とも勿体ないことになった。

その罪滅ぼしというわけではないが、
朝食だけはしっかりと頂き、
折角遠野が傍にあるのだからと、
少し北に戻って遠野を訪ねた。

遠野の駅周辺は奇麗に整備され、
語り部の館のような建物が散見されたが、
どれも子供騙しの演出ばかりで、
いずれこの街を維持することに経済的に無理が生じるのではと、
老爺心ながら先を心配する風情だった。

それでも何か記念になるカッパの作り物でもと思い、
少し離れたカッパ淵に立ち寄った。
案の定、周辺はカッパの三文字だけが踊っているばかりで、
古びた寺と意味不明の立て札だけの、
のどかな田園風景を散策することになってしまった。

この三日間、
三食丸々摂取したせいで、
夫婦はもう極端に食欲が減退していた。
で、その日は昼食を抜く。
お陰でその晩宿泊した鬼首温泉の食事は、
その味の濃さに土地柄だからと頷きながら、
どうにか頂くことが出来たのだった。

その鬼首温泉を地図上で発見した折、
随分山の中の寂びたところだろうと勝手に思い込んでいたが、
豈図らんや、
宿は宮城から山形へ抜ける国道沿いにあった。
その昔、温泉も宿も川沿いだったらしいが、
国道を通すにあたってその地を譲り、
今は国道を挟んでその反対側に宿は建てられていた。

旅館のサービスは褒められたものではないが、
料金は実に廉価で、
しかも温泉は重曹泉や硫黄泉といった、
全く異なる泉質の湯殿がそれぞれ4湯湧いており、
それだけでも楽しめる温泉宿ではあった。
翌朝、私達はやや早めに出発した。
ああ松島や!の遊覧船巡りがその目的であった。

2009年9月7日月曜日

東北紀行 其の三 秋田から岩手へ

秋田へ帰省するにあたって、

私は事前に誰にも連絡をとらなかった。

生来、同族とか同窓とか云う、

密着型の人間関係を忌避してきた。

その上、彼の地を離れて四十数年経ってしまっている。

然りとて連絡を取れば皆が気を遣い時間をつくる。

一人だけへの連絡というわけにもいかず、

それを考えると返って煩わしく思ったからである。

昼過ぎに秋田に到着した後、

墓参は私達夫婦だけで済ませる。

住職に法要を託し小一時間程で寺を後にした。

これで当初の目的は果たしたことになる。

その後、案件となっていた所用を済ませると、

ホテルに入りシャワーを浴びる。

いつの間にか時間はもう六時を過ぎていた。

二人でホテルを出るとその足で

そのまま歩いて辿れる飲屋街をぶらぶらとぬう。

案の定、キャッチバーの客引きがうろうろしている。

さすがに彼らも私達とは目を合わそうとはしない。

なんかな〜〜こればかりは全国共通・・。

岩牡蠣の看板に釣られてとある飲み屋へ入る。

料理人は三年ものに岩牡蠣と宣伝するが、

畔蛸で養殖された濃厚な岩牡蠣や、

和歌山、富山で頂いた三年ものに比べると、

とてもとてもその身は料理人と同じで如何にも幼い。

只、その店で売りにしていた比内鶏の串焼きは、

それが本当に比内鶏か定かではないにしろ、

それなりに濃厚な味の焼き鳥ではあった。

しかし、串焼きとも云えないその料金。

それを置いても醤油味の濃さは何とも辛い。

秋田というところは〜〜、

子供の時代から今一つ、

この地には馴染めなかった大きな理由かもしれない。

翌朝、ゆっくりと仕度を整え、

岩手の盛岡へ向かう。

その目的は椀子そば!

二十数年前、かの地を訪ねた折りに食べ損いその恨みを晴らそうという、

蕎麦好きの夫婦の長年の思いがそこにあった。

その後、花巻温泉の藤三旅館で一泊。

この湯治旅館、それこそ三十数年前からその存在を知りながら、

宿泊を果たせずにいた湯治温泉である。

岩手までは秋田自動車道から東北道と、

高速を乗り継いで三時間あまりの道行きである。

正規の料金を払うのは釈然としないが、

地道を走ってでは藤三旅館までの道のりが遠すぎる。

山間をうねるように走る秋田道、

やはり走行車両が極端に少ない。

平日の昼というのにまるで我が専用道のような光景である。

鶴岡から秋田に向かう山形道も高速上の車は疎らだったが、

その数倍の距離があるというのに、

遭遇した車の数は数える程だった。

それでも高速の恩恵にあずかった手前、

無駄とは云い難いが、

こう極端に走行車両が少ない光景に接してみると、

官僚と政治家の馬鹿さ加減が、

如何にも具体的に露呈していると思わざるを得ない。

走行車両は何とも疎らだが、

これら高速の視界に展開する風景は見事というほかない。

収穫の一歩手前に膨らみかけた稲穂の輝く田園風景。

緑豊かな山々の重層に織りなす変幻自在な景色。

日本という国の美しい自然を、

高速で走り抜ける爽快感は、

何ものにも替えられないと感じさせられたのは確かである。

東北道に入るとさすがに車は多い。

利用頻度だけで要不要を云うのは間違いかもしれないが、

それにしてもこの通行車両の数の差は、

あまにもとしか説明しようがない。

盛岡の椀こそば、

妻が事前に調べたそば屋へナビだけが頼りである。

よく裏切られて画面相手に罵声を浴びせるが、

このたびは無事到着することが出来た。

よしよし、くるしゅうない・・。

一階は普通のそば屋・・。

あれれ!と思いきや、

椀子そばは二階でと促される。

なるほど、階段を上がると大広間になっている。

そこに座机がずらりと並んでいる。

ちょっとわくわくきぶんである。

夢に描いた椀子そば、

注ぎ手の若い女性のかけ声が面白い。

あっそれ! よいしょ!などなど、

小声で調子を取って椀そばを注ぎ込む。

妻は四十五杯、私が八十五杯。

少し余裕を持って終了する。

何せそれ以上食べ続けたら運転が不可能になる。

それでも十杯一人前である。

入れれば入ると食べた当人が感心する。

そば屋を後に花巻温泉まで地道を走る。

盛岡の街は高層ビルが少なく空は広い。

その街を走ると、

ラーマン屋の看板がやたら多いが、

椀子そばの看板は何処にも見当たらない。

栄枯盛衰がこんなところにもあるのかもしれない。

盛岡から花巻まで三時間程の農村風景を走り抜ける。

強く感じたのはなだらかな平坦地の少なさである。

庄内平野を抜けてきた我々の目には、

未だ開拓地と思わせるような、

遊びや喜びの空間を感じられない、

山裾に広がる段々状の耕作地であり、

自然の厳しさを強く感じさせられるそんな風景だった。