2009年6月17日水曜日

梅雨の嵐

昨日の夕刻、

この辺一帯が凄まじい雷と大粒の雹に見舞われた。

大きいもので直径二センチ程あっただろうか・・。

雷はこの時期になると毎年のことで驚かなかったが、

こんな大粒の雹が降りそそいだのは、

私が京都に住んで四十年あまり経つが、

初めての経験である。

 

雹は隣の屋根瓦に当たって弾みをつけるように跳び、

我が家のガラス窓を激しく打った。

この程度でガラスが割れることはないと思いながらも、

雹の大きさとガラス当たるその音の凄まじさに、

妻が怖じ気好き、

仕方なく雨戸を閉めた程であった。

 

私が人生でこれほど大きな雹を経験したのはこれで二度目である。

初めての経験はカトマンズ市内を歩いて観光した折のことだった。

まさにそう、にわかに一転空がかき曇り、

雷鳴轟いたかと思うと上空から無数の雹が、

バラバラと凄まじい音を立てて地面に降り注いだ。

 

カトマンズは盆地ながら標高千メートルの高地で、

夏の乾期といえども時折雹が降るのは、

さほど珍しいことではないという話だった。

それでもその折に地面に落ちる雹はとても大きく、

中にはゴルフボール大のものも多数混じっていた。

 

当時私達夫婦のように、

当てもなくカトマンズの街を歩く日本人は珍しかったのか、

様々な目的で集まった青年達に囲まれたが、

その暴力的ともいえる激しい雹の襲撃に遭い、

辺りにいた住民と共に群れはバラバラに散逸し、

誰もが近くの建物に非難する程だった。

 

今から二十数年前、

それまでの生活に一区切り付いた夫婦は、

ネパールへと旅立った。

夫婦にとってネパールの首都カトマンズは、

どうしても訪れたい都市の一つだった。

その当時、まだ日本からネパールへの直行便はなく、

経由地のタイで一泊してからカトマンズ空港へと向かった。

 

我々の搭乗した中型の双発機が着陸したカトマンズ空港は、

中心に敷設したアスファルトが砂に見え隠れするような、

滑走路のほとんどが剥き出しの地面ような状態で、

国際空港とは名ばかりの未整備な空港だった

 

敢えて例えるならその景観はまるで、

日本のローカル空港でも、

これほど酷いものはないと思えるような風景であり、

空港にある税関の建物も簡便というよりは、

その辺にある土壁の倉庫を移築したといった造りのもので、

空港に隣接した野原にぽつんと据えられているという印象だった。

 

私達を迎えたのは現地のガイドで、

彼は以前、日本に留学していて、

数年前帰国しガイドをしているという、

日本語の堪能な青年だった。

 

彼は束縛を嫌う私達夫婦の意を汲んで、

一週間あまりの行動計画だけを簡単に説明すると、

どうしても同伴が必要な地域以外は、

敢えてホテルから一キロほど離れた自宅で待機し、

私達が勝手に観光することに同意してくれたのだった。

 

このネパール旅行には、

小型機でのエベレスト周遊がパックになっており、

天候に恵まれれば一時間あまりのフライトで、

エベレストの連なる尾根を、

間近に眺めることが出来ることになっていた。

 

予定していたエベレスト周遊は一日遅れながら天候に恵まれ、

日本の山々の更にその上に聳え立つような、

まさに峻厳とたとえるのに相応しい、

鋭く切れた氷の尾根の連なるヒマラヤを睥睨することが出来たのは、

まさに幸運の女神が微笑んだのかもしれなかった。

 

しかしその翌日向かったポカラの空港は、

カトマンズ空港よりも更に酷い環境で、

それこそ牧場の一角を滑走路に解放しているようなところだった。

 

小型機が着陸するのを見計らうように移動する、

家畜達の群れを上空から眺めながら、

不安を胸に抱いたままその機が着陸に成功したとき、

揺れる機内で乗客が一斉に笑顔になり拍手した光景が、

安堵した思いとともに今でも鮮明な記憶となって残っている。

 

なぜポカラへ飛んだかまでは記憶にないが、

カトマンズより更に高地にある、

白壁にオレンジの瓦の瀟洒なホテルの入り口に立つ守衛の、

私達に向ける親愛の籠った笑顔と敬礼が、

ヒマラヤ連邦の中にあって格別美しい景観を見せる、

アンナプルナというそのホテルから望める独立峰の美しさと共に、

今でも何かの折に微笑ましいい思い出となって蘇ることがある。

 

ガイドの青年は当時、

ネパールの平均寿命は四五十歳であると語り、

今王制を倒し民主化に向けた運動をしているが、

自分が生きているうちに出来るかどうかわからないと、

自らの寿命の短さを嘆いていた。

 

あれからもう二十年以上の年月が流れた。

当時は彼の語るネパールの民主化など、

夢のまた夢ような話だったあの国で、

数年前、王族同士の血塗られた権力闘争の結果とはいえ、

ようやく民主化が果たされたようである。

 

ガイドをしながら運動の資金を稼ぎ、

帰国する私に資金稼ぎにと曼荼羅を託す程、

民主化の運動に身を捧げていた彼は今、

果たしてどうしているのだろうか・・・。

 

当時既に三十代に達していた彼は、

もし存命しているとすれば五十は既に超えているはずである。

願わくわ、今なお生きてこの民主化が成功したこの時を、

家族とともに喜びを分かち合っているだろうことを、

彼と連絡の術すら既にない私は、

只ひたすら念じるばかりである。

2009年6月16日火曜日

生きた歴史の証明

ご存知のように、

自己の存在を証明するには困難を極める。

いや未だにその存在を論理的に証明できた哲学者は、

存在しないと断言してもいいかもしれない。

 

私達日本人の多くは犯罪歴でもない限り、

比較的簡単にパスポートを取得できる。

自分がこの国に生きた証を証明する戸籍の取得も、

現実にはそれほど難しいことではない。

 

しかし現在なお、

中国には自らを日本人と知りながら、

日本人と認められないまま、

現地での生活を余儀なくされる方々が多数いるようである。

彼らは終戦直後の六十数年前に中国に置き去りにされ、

そのままほとんどが中国人として育てられた方々である。

 

中には運良く日本人であることが証明され、

現在は日本人としてこの国に居住している人もいる。

しかし、そういった方々の中にも、

自らが育った地での存在証明を取得するのが

今は実に困難になっているようである。

 

文化大革命と云う嵐の中で、

多くの中国人はもとより、

残留孤児と思われる方々の在籍証明の書類までもが、

ほとんど失われてしまったのがその原因のようである。

 

これはしかし何も中国だけの問題ではない。

社保庁といった組織ぐるみの怠慢によって、

多くの国民が過去に納めた納付金が消滅したことは、

まだ記憶に新しいことである。

この社保庁の問題などは、

人の生きた歴史などかくも簡単に消し去ることが出来るという、

まさに格好の実証例と云えるかもしれない。

 

一度失われた過去の個人の歴史を、

再び証明することがいかに難しいか、

今の社保庁の対応を見るだけでも、

よく理解できるのではないだろうか・・。

 

この社保庁の問題に限らず、

相続手続きを自分で処理しようとしたところ、

所有者の戦前の戸籍証書の紛失により、

以後の手続きが不可能と知り、

最後の手続きを行政書士に依頼した経験がある。

 

その時は戦争による戸籍の紛失証明という、

素人では不可能な書類作成が、

彼らの利権と思って手続き料を支払った。

しかし今思い起こしてみると、

自分だけのことならいざ知らず、

親の代にまで遡ると、

この日本という国でも大戦を挟んでいるがために、

その証明が困難な例はかなり存在しているようである。

 

先日偶然にもテレビに流れた残留孤児の番組を見て感じたのは、

彼が娘とともに中国の地方市役所を訪れて、

自らの戸籍が失われていることを知った時、

彼の表情からはそれほど強い喪失感は感じられなかった。

それは恐らく彼が既に得ている日本人であるという証明が、

背景となって彼の心の支えになっているからのように思えた。

 

確かに彼が中国に存在したという書類上の証明は失われたが、

そこで出会った高校時代の学友や、

幼年期に育った地域の幼なじみと交流を通じて、

彼自身の生きた現実の歴史を、

目の前で娘に証明できたことは、

恐らく戸籍証明を得ることよりは遥かに重い、

彼がそこに確かに存在したという、

確かな証明となったに違いなかった。

 

中国人として育てられた彼が、

文化大革命の最中であるにも拘らず、

北京大学を受験した際、

その事実を知る中国人に嘘つきと叱責されたからとはいえ、

自らを日本人と記載して大学への入学を拒否された。

 

それが故に、

肉体労働者として働かざるを得なかった彼の過去を知り、

私達がいつまでも引き摺っている、

東大紛争という嵐の中で失った青春の歴史など、

如何にも些細でつまらないものに思えてしまう程、

彼が残留孤児として中国で生きた軌跡は、

とてつもなく深い闇の中にあることを、

否応もなく知らされたのだった。

 

自己の歴史を辿ることは、

生きた軌跡を証明することであり、

同時に書類上にある戸籍証明とは違った、

自己の確かな存在の歴史を確かめられるようである。

 

戸籍という国家システムに依存する自分の存在証明が、

例えば世界大戦や中国の文革と云った国家的混乱の中では、

かくも簡単に消失するというのが紛れもない現実である。

それでも人はこうして、

自分の生きた軌跡を国家に依存しながら、

人は自らが生きて辿った軌跡の思い出とともに、

その存在を確認しながら生きる以外に術はないのである。

 

今日本人は自らの活動の場を世界中に求め、

新しい地で自らの歴史を造り上げている。

かりそめにも平和が続く今の時代、

幸いにも戸籍を失というようなことには至っていないが、

それがいつまでも保障されるわけでもない。

 

この如何にも脆い国家システムのもと、

この国に縋らざるを得ない危うさの中で私達は生きている。

同じ日本人でありながら、

他国で残留孤児といわれながら阻害されるような人生をおくり、

親の地で自己の存在証明すら出来ないような人々が、

これから先、

二度と再び現れないことをただ祈るばかりである。

2009年6月15日月曜日

温泉フェチ

金曜日、夫婦の時間が空いたのを幸いに湯村へ向かった。

趣味といって取り立ててない私は温泉フェチで、

二ヶ月か三ヶ月に一度は温泉地へ車を走らせる。

ところがこの半年ばかり、

妻との時間調整が折り合わずに我慢の日々が続いた私は、

フラストレーションをひたすら溜めていた。

 

温泉は疲れを回復させるいい手助けとなる。

運動不足の体にもまた、

血行を促進させ代謝能力を高め免疫力を回復させてくれる。

その効能が私達夫婦の元気の源と勝手に思っている。

 

ストレスの溜まった私は、

このところ口内炎に悩まされていた。

こんな場合原因が分かっているから、

医者から診断を仰ぐようなことはしない。

変な病気を引くのも嫌だし、

なにしろ温泉が一番の薬と知っているからである。

 

木曜日、旅館にwebから基本料金で予約を入れ、

蟹と蕎麦をメニューから省いてもらう。

蟹は時期ではないし、

蕎麦は途中で美味しい蕎麦屋で昼食をとる。

基本料金にするのは、

以前少し贅沢をして懲りたからである。

 

定宿にしているその温泉旅館、

高い料金だからといって料理の質が良くなるわけではなかった。

挙げ句、品数の増えた料理を食べ残した経験が、

こういった予約をするようになった所以である。

 

京都から湯村まで休まずに走れば三時間半あまりで辿り着く。

京都市内で妻の用事を済ませ、

京都五条通を西へ走り京都丹波道と走り、

終点の丹波で九号線に合流する。

 

それから暫く走ると、

自然食志向の蕎麦屋が九号線沿いにある。

そこで蕎麦と麦飯をごま油で炒めた“ソバメシ”の付いた

マクロビオテックト称する蕎麦定食を頂く。

地の野菜を主体にアレンジした定食で、

これがなかなか病み付きになる味なのである。

 

ちょっと出発が遅れたせいで、

食事を終えて蕎麦屋を出た頃には二時近くになっていた。

それでも途中道の駅で道草を喰って、

丹後から大体二時間少しで湯村へは到着できる。

決して時間的には余裕がないわけではない。

 

湯村へ向かう途中の九号線沿いには、

かの有名な城崎温泉がある。

若い頃はよくこの温泉地に宿泊していたが、

一時期酷く混雑した時期があり足が遠退いた。

 

更にその上夕月楼という、

宿名に引かれ宿泊した旅館が、

まさに四畳半襖の下張りを彷彿とさせる、

博労が定宿にしたような遊郭の風情そのもので、

キャンセルするわけにもいかずに宿泊して、

二人で興ざめした経験が重なり、

最近は素通りするようになってしまったのである。

 

湯村のお湯は、

城崎よりは硫黄分が少し強いが、

湧出温度は九十度を超える高温で、

温泉街の中心にある温泉神社の付近に、

自家製の温泉卵を作る湯殿が開放されている。

少し早めに到着して旅館がサービスでくれる卵を持って、

温泉卵を作るのも夫婦の楽しみの一つである。

 

私達が初めて訪れた頃、

温泉街は夢千代日記の宣伝で賑わっていたが、

その頃の我が家にはテレビがなく、

その物語の何たるかもよくは知らなかった。

それでもテレビ番組の流行は実に一時のもので、

今では夢千代などはそっちのけで、

温泉組合が総力でかくれんぼか何かのイベントを催し、

新たな集客を図っているようだった。

 

若い頃、夫婦は争うようにして、

一晩に四五回は温泉に浸かっていた。

しかし最近はどうもいけない。

到着して一休みして温泉に浸かり、

ロビーでビールを飲んだ後に温泉街を散歩する。

 

温泉卵を作りながら二三十分ばかり掛けて、

ぶらぶら辺りを散歩して途中で一杯。

旅館に戻るともう段取りよく食事の用意が整っている。

冷酒を一本頼んでチビチビ呑むと、

もう二人とも再び温泉に入る力が湧かなかった。

笑いながら、

温泉に入るのにも体力が必要と、

妙に納得する始末だった。

 

帰り道の途中には、

知る人くらいは知る出石市がある。

ここは昔随分寂れた街だったが、

その頃から皿ゾバは有名で、

少し濃いめの出汁に生卵をいれるという、

独特の食べ方を楽しみながら、

二十皿以上を重ねたこともあった。

 

しかしここも某放送局の番組に取り上げられ、

一躍脚光を浴びてその波に乗り遅れまいと、

家々がこぞって皿ゾバ屋や土産やを開店し、

一時市内の中心部は銀座の賑わいを呈していた。

 

だが、移ろいは世の習い。

好奇心に誘われ久しぶりに市中を車で練って見ると、

土曜日というのにその賑わいは、

繁栄した当時の三割二十パーセントにも至らない。

しかし雨後のタケノコのように開店した皿そば屋は、

車道沿いにひしめき合うように真新しい軒を並べ、

バブルに踊った悲惨な未来を予測せずにはおれなかった。

 

久しぶりの温泉、

妙に疲れたというか気が緩んだというか、

土曜と日曜は日がな二日あまり、

何をする気にもなれないままとろとろと過ごし、

久しぶりに完全休養の日なった。

お陰で我が免疫力は正常値近くまで回復した。

まあ勝手にそう思っている。

2009年6月12日金曜日

新興宗教という存在

昨日からのニュースで、

霊感商法を使って暴利を貪った会社が検挙された。

まあ当然の成り行きと思って眺めていた。

しかもその背後に統一教会の姿が見え隠れしている。

テレビの報道だから何処までが本当か分からないが、

そういった霊感商法で、

暴利を貪っていたのは確かなようである。

 

日本に維新以降勃興した新興宗教、

代表的なものを拾うと、

天理教、大本教、創価学会、幸福の科学、統一教会、オーム真理教などなど、

数え上げれば切りがないようである。

 

これら宗教のよりどころは、

旧来のキリスト教、仏教、神道と云った、

様々な宗教や宗派で、

それらが綯い交ぜになって土台となっているようである。

 

そう思って確認の為にウィキペディアを調べると、

天理教や金光教はどうやら江戸時代からあったらしい。

京都から奈良へゆく二十四号線沿いには、

天理市という天理教を冠した地名の町があり、

その辺一帯が天理教の建物だらけで、

天理病院という立派な総合病院までもがある。

 

私は旧来型の仏教徒だが、

天理教などは世界各国にその連絡網を持っており、

旧来の日本仏教などより、

もっと国際的に活動している宗教なのかもしれないと、

思わされたりしたこともある。

 

そういったある程度社会的な確立された宗教団体は、

それなりに安定しているようだが、

戦後雨後のタケノコのように発生した、

新興宗教と云われる団体の中には、

かなりうさん臭い宗教団体が多く含まれている。

 

創価学会など、

今でこそ、それなりに社会的には安定を得て、

政治にまで口出しするほど成長?したが、

四五十年前は新興宗教として、

一般人を勧誘するその手法が随分と強引で、

よく顰蹙を買っていたものである。

 

こういった新興宗教が資金集めによく利用するのが、

今回検挙された霊感商法である。

確かにちょいと見は立派な印鑑や壷だが、

今中国のその筋に制作を頼めれば、

一点精々高く見積もっても数千円程度のものである。

それが、んん十万円では、

いかにイワシの頭も信心からとはいえ、

通常の商いではぼったくり詐欺以外の何ものでもない。

 

随分以前、そう幸福の科学が芽を出した頃だろうか、

不遇の若者達が数人集まったとき、

今の世で何が一番金儲けし易い職業かといった問題を、

酒の勢いに任せて話し合ったことがある。

ケンケンガクガクの論戦の末にでた結論は、

何とも全員一致で宗教団体だった。

 

当時の誰もが、

宗教の持つうさん臭さを嫌っており、

その金権体質が鼻についてはいた。

だからというわけではないが、

楽をして金儲け出来る職業を探してみたら、

行き着いた先がこういった結論だったことに、

誰もが妙に納得したのだった。

ただそのとき同時に、

自分達が今更ながらお金には縁がないことを、

とことん知らされた思いを抱いたことも確かだった。

 

それから間もなくして、

オーム真理教や幸福の科学、統一教会などなどといった、

真新しい新興宗教がぼこぼこと起こり始め、

きっと同じ頃に同じようなことを考えた奴がいて、

それを実行した奴がいたのだと、

その符丁のあった偶然の織りなす糸の絡みように、

顔を合わせるたびに苦笑いしたのだった。

 

ご存知のように問題を起こしている宗教団体の、

総じて目的とするところは金集めである。

教団に巣食う欲深い信者紛いの者を中心に、

黄金色の好きな同類が吸い込まれるように集まり、

口八丁手八丁で騙しのテクニックを駆使する。

私も一度ならず二度三度、

そういった種類の勧誘を受けたことがある程だから、

全く経験のない人など皆無かもしれない。

 

一つの考えとして、

即物的な享楽にお金が湯水のごとく流れるよりは、

そのお金が宗教と云う形で、

もっと精神的な豊かさを得られる方向で使われるのも、

それほど悪くはないかもしれないとは思っている。

そこにこそ宗教が存在する意味があるわけだが、

信者達が本当にそういう目的で資金集めをするなら、

どこにも何も問題はないはずである。

 

ところが、私達が若い時代に、

酒の勢いで考えた戯け話のようなことを、

何ともまあ具体化しているよう連中が、

新興宗教という組織に巣食っているのも現実のようである。

 

生駒には修験者の数だけ宗教があると、

一人の人間臭い修験者を囲む、

数人の教壇というよりは集まりに身を置く、

ある中年女性の話を聞いたことがある。

 

彼女の話によると、

その教祖は隣のおっちゃん的存在で、

修行を終え下山した頃を見計らって皆が集まり、

食事会のようなことを催すらしい。

それでも立派な宗教団体には違いないと、

彼女は自重気味に笑っていた。

 

考えてみるとこの国の宗教の原点は、

そういったところにこそあるのかもしれない。

資金集めに狂奔して逮捕される信者の、

虚ろな眼差しを見ながら、

こっそり彼らにこういった話を、

耳打ちして上げたい衝動にふと駆られるのだが・・・。