最近のテレビ放送がこれほどまでに凋落した原因の一つに、
吉本という存在があると私は思っている。
勿論、視聴率本位に寄りかかり、
自ら番組編成への自助努力を怠ったテレビ局の体質が、
その大いなる原因であることに疑問の余地はない。
しかし、視聴者の指示をこれほどまでに失うには、
吉本と云う存在が大いに役立っていたと、
私は確信を持って眺めている。
お笑いと云う存在が魔女という事ではない。
彼らが大衆受けするという事だけで、
視聴率稼ぎに駆り出したテレビ局にこそ、
その病理の根はある。
吉本という芸人達に備わっているのは、
狂言や落語といった、
文化として構築され継承された笑いの芸ではなく、
その場凌ぎのおちゃらけ芸に過ぎないのである。
確かに舞台で知恵足らずを演じてずっこける風景を見れば、
観客の鬱積したストレス発散には役立つかもしれない。
しかしそういった笑いはその場限りの物で、
決して観客の心に残るような、
文化としての重さのない芸なのである。
云い方は悪いが、
観客は演芸場へ行き心の中に鬱積した唾を吐き、
そのお陰でスッキリして再び家路に着くのである。
そこにどうしても必要な条件は、
電車に乗って足を運び、
ついでに美味いものを食べて帰宅するという、
日常からはなれたプロセスなのである。
それがお手軽に茶の間から見る事が出来る。
そこには電車に乗って、
帰りに美味しいものでも食べてという、
日常からはなれるという、
最も大切なプロセスが欠けてしまっている。
お笑い番組が飽きられる大きな原因が、
このテレビの持つ手軽さにあるという事に、
思いが至らないのはテレビ局のスタッフだけで、
恐らくそういったプロセスを愛するおばちゃん達は、
はなっから気が付いているはずである。
彼らが情報番組にまで跋扈する姿を眺めながら、
テレビ局も行き着くところまで行ったといったと、
呆れ果てた思いと同時にその時蘇ったのは、
ニューヨークで感じた不快な光景だった。
それは十年あまり前、
私達夫婦が妻の個展の準備でニューヨークを訪れた時、
偶然にも彼ら吉本の芸人達が、
ヒルトンホテルの前に屯しているところに遭遇したのである。
それだけで私はとやかく言っているのではない。
むしろ彼らもニューヨークまで来て頑張っているという、
微笑ましい思い出で済んだ話である。
ところが彼らのホテル前での振る舞いは、
舞台上で喚きおチャラケルその行動パターンと、
何ら変わるところがなかったのである。
繰り返して云うが、
お笑い芸人をとやかく言うつもりはない。
時と場所さえわきまえるなら、
彼らも立派な娯楽産業を担う一員なのだから・・。
しかし他国の路上にその身を置く時、
自分の行動が次に訪れる日本人の、
基準になるという怖さを、
彼らはまるでわきまえていなかったのである。
その最低限のルールすら理解していない、
吉本芸人達の振る舞いに遭遇して、
私はこういった連中が、
マスコミの表舞台に立つ怖さをその時感じたのだった。
よく悪貨良貨を駆逐いするという諺がある。
今まさにテレビ局に限らす、
日本という国が人間社会あるいは国家の何たるかも知らない、
節操を欠いたお手軽人間達に上から下まで、
モラルハザードされているように思えてならないのである。
何の思想も理念もない彼らにとって、
その発言が社会的にどういった影響を持つかなど、
あまり真剣に考えているようには思えない。
たとえその場凌ぎの問答でも、
彼らは基本的にそれで自分達の存在感が増し、
稼ぎになりさえすればいいのである。
そういった刹那的な価値観が、
演芸場と云う場にあるうちは何も問題はない。
訪れる大人達はそれを理解した上で足を運ぶのである。
しかしそういった価値観を持つ大人達が、
各家庭のテレビ画面で大手を振って歩いている。
しかも情報番組のコメンテーターという、
社会的に影響力のある場で、
とてもことの重要さを理解しているとは思えない、
愚にもつかないコメントをしたり顔で言い放っている。
こういった光景を見ていると、
彼らの誇る余りにも即物的なオチャラケた価値観によって、
人が生きる上で知識と経験を積み重ねることの大切さが、
無用のモノのごとく切り捨てられるような、
強い痛みを感じてしまう時がある。
だかといって彼らお笑い芸人達を、
テレビから閉め出すべきだと主張しているのではない。
私がお願いしたいのはスポンサーから金を集める為だけに、
視聴者を馬鹿にするような番組放送は即刻取りやめ、
テレビの基本とも云うべき報道番組に力を注ぐという、
原点に立ち返って欲しいだけのことなのである。

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