昨日の夕刻、
この辺一帯が凄まじい雷と大粒の雹に見舞われた。
大きいもので直径二センチ程あっただろうか・・。
雷はこの時期になると毎年のことで驚かなかったが、
こんな大粒の雹が降りそそいだのは、
私が京都に住んで四十年あまり経つが、
初めての経験である。
雹は隣の屋根瓦に当たって弾みをつけるように跳び、
我が家のガラス窓を激しく打った。
この程度でガラスが割れることはないと思いながらも、
雹の大きさとガラス当たるその音の凄まじさに、
妻が怖じ気好き、
仕方なく雨戸を閉めた程であった。
私が人生でこれほど大きな雹を経験したのはこれで二度目である。
初めての経験はカトマンズ市内を歩いて観光した折のことだった。
まさにそう、にわかに一転空がかき曇り、
雷鳴轟いたかと思うと上空から無数の雹が、
バラバラと凄まじい音を立てて地面に降り注いだ。
カトマンズは盆地ながら標高千メートルの高地で、
夏の乾期といえども時折雹が降るのは、
さほど珍しいことではないという話だった。
それでもその折に地面に落ちる雹はとても大きく、
中にはゴルフボール大のものも多数混じっていた。
当時私達夫婦のように、
当てもなくカトマンズの街を歩く日本人は珍しかったのか、
様々な目的で集まった青年達に囲まれたが、
その暴力的ともいえる激しい雹の襲撃に遭い、
辺りにいた住民と共に群れはバラバラに散逸し、
誰もが近くの建物に非難する程だった。
今から二十数年前、
それまでの生活に一区切り付いた夫婦は、
ネパールへと旅立った。
夫婦にとってネパールの首都カトマンズは、
どうしても訪れたい都市の一つだった。
その当時、まだ日本からネパールへの直行便はなく、
経由地のタイで一泊してからカトマンズ空港へと向かった。
我々の搭乗した中型の双発機が着陸したカトマンズ空港は、
中心に敷設したアスファルトが砂に見え隠れするような、
滑走路のほとんどが剥き出しの地面ような状態で、
国際空港とは名ばかりの未整備な空港だった
敢えて例えるならその景観はまるで、
日本のローカル空港でも、
これほど酷いものはないと思えるような風景であり、
空港にある税関の建物も簡便というよりは、
その辺にある土壁の倉庫を移築したといった造りのもので、
空港に隣接した野原にぽつんと据えられているという印象だった。
私達を迎えたのは現地のガイドで、
彼は以前、日本に留学していて、
数年前帰国しガイドをしているという、
日本語の堪能な青年だった。
彼は束縛を嫌う私達夫婦の意を汲んで、
一週間あまりの行動計画だけを簡単に説明すると、
どうしても同伴が必要な地域以外は、
敢えてホテルから一キロほど離れた自宅で待機し、
私達が勝手に観光することに同意してくれたのだった。
このネパール旅行には、
小型機でのエベレスト周遊がパックになっており、
天候に恵まれれば一時間あまりのフライトで、
エベレストの連なる尾根を、
間近に眺めることが出来ることになっていた。
予定していたエベレスト周遊は一日遅れながら天候に恵まれ、
日本の山々の更にその上に聳え立つような、
まさに峻厳とたとえるのに相応しい、
鋭く切れた氷の尾根の連なるヒマラヤを睥睨することが出来たのは、
まさに幸運の女神が微笑んだのかもしれなかった。
しかしその翌日向かったポカラの空港は、
カトマンズ空港よりも更に酷い環境で、
それこそ牧場の一角を滑走路に解放しているようなところだった。
小型機が着陸するのを見計らうように移動する、
家畜達の群れを上空から眺めながら、
不安を胸に抱いたままその機が着陸に成功したとき、
揺れる機内で乗客が一斉に笑顔になり拍手した光景が、
安堵した思いとともに今でも鮮明な記憶となって残っている。
なぜポカラへ飛んだかまでは記憶にないが、
カトマンズより更に高地にある、
白壁にオレンジの瓦の瀟洒なホテルの入り口に立つ守衛の、
私達に向ける親愛の籠った笑顔と敬礼が、
ヒマラヤ連邦の中にあって格別美しい景観を見せる、
アンナプルナというそのホテルから望める独立峰の美しさと共に、
今でも何かの折に微笑ましいい思い出となって蘇ることがある。
ガイドの青年は当時、
ネパールの平均寿命は四五十歳であると語り、
今王制を倒し民主化に向けた運動をしているが、
自分が生きているうちに出来るかどうかわからないと、
自らの寿命の短さを嘆いていた。
あれからもう二十年以上の年月が流れた。
当時は彼の語るネパールの民主化など、
夢のまた夢ような話だったあの国で、
数年前、王族同士の血塗られた権力闘争の結果とはいえ、
ようやく民主化が果たされたようである。
ガイドをしながら運動の資金を稼ぎ、
帰国する私に資金稼ぎにと曼荼羅を託す程、
民主化の運動に身を捧げていた彼は今、
果たしてどうしているのだろうか・・・。
当時既に三十代に達していた彼は、
もし存命しているとすれば五十は既に超えているはずである。
願わくわ、今なお生きてこの民主化が成功したこの時を、
家族とともに喜びを分かち合っているだろうことを、
彼と連絡の術すら既にない私は、
只ひたすら念じるばかりである。

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