物質としての生命体はアナログである。
これが真理か否かは別にして、
私達の日常はアナログ的に成立している。
恐らくこれを生理的に否定することも、
論理的に否定することも困難と思われる。
数字はディジタルである。
何となれば、
奇数という存在を考えることで直ぐに解明できる。
三の数を二分割してみると、
決して1.5ではない。
1.5と1.5の間には限りなく.5の数字が、
それこそ地獄の果てまでも続いている。
1.555555555555555555・・・といった具合で、
決して2分割できないことが理解できると思う。
この果てしなく割り切れない数字を奇数という。
実は奇数だけが割り切れないわけではないという世界が、
数学理論の中には数多く存在するらしい。
私は数学者ではないから、
その詳しい説明は出来ないが、
一つだけ面白い理論を紹介することくらいは出来る。
この理論の名前までは失念してしまったが、
話はこうである。
一人の人間が百メートルを走ろうとする。
初めに50メートル、それから25メートル、
その次はその半分といった方法で走るとすると、
その人間は永遠に、
100メートルのゴールへは辿り着けないことになる。
これはいわば数字はディジタルの世界という、
実に明快な説明と思うのだが、
このパラドックスを考えた数学者が、
だから数学はディジタルといったかどうかは判らない。
この考えは数学を扱ったことのある人間なら、
誰もが知っているごく初歩的な考えと思われる。
もし数学世界がアナログだったら、
きっとゼロという概念は生まれなかった。
これは私の独断である。
数学者には笑われるかもしれないが、
アナログ世界にはゼロは存在しない。
数学的に表現すると、
理論上一個のリンゴを食べると、
そこにリンゴは存在しないことになる。
しかし現実に存在するリンゴは、
皮を剥いたり芯を摂り省いて食する。
従ってリンゴ一個食べたからと言って、
皮や芯は忽然と消えてしまったりはしない。
数学的にはゼロでも、
アナログ世界ではこれをゼロとはいわない。
単に一個のリンゴを食べたというだけの結果である。
ゼロはインド人によって考えだされたと聞く。
その誰かがゼロを発見しなかったら、
今の世界にゼロという数字が存在していないかもしれない。
そうなると数学ばかりか、
ゼロを取り入れた成立した数多くの理論までが、
そしてまた都市を形成するビル群もまた、
夢幻と消え去ることになる。
これは私の想像だが、
数字が考えられ使用された段階で、
人は決してディジタルな存在とは捉えていなかった。
物品を区分けする為に、
暫定的に使用していたはずの数字が、
ゼロという数字の発見によって、
ディジタル的資質を開花させ、
いつの間にか実用社会から独立した存在となり、
様々な可能性を切り開く道具となった。
それでも人間はアナログな生命体である。
ディジタル映像といった切れ切れの映像の間にある、
存在しない空白の空間を、
勝手に脳が一連の流れを想像し、
点と点の間を繋いでしまうのである。
そうして途切れ途切れの映像をアナログ化することで、
動画として捉えている。
しかし同時にディジタル世界にも片足を掛けている。
なぜなら、一人がリンゴを食べてしまったと主張すれば、
仮にそこに皮や芯が転がっていても、
第三者は勝手にリンゴがゼロと解釈してしまう。
そのことは取りも直さず、
自分の行動がアナログ世界のものか、
その身がディジタル世界にあるかなど、
まるで頓着なく過ごしていることを意味してる。
こういった曖昧さは実は非常に危険なのである。
随分以前だが、
広告をフラッシュバック的な技法で、
瞬間的に流すのが問題になったことがある。
人間の脳に巧く作用して記憶に潜在し、
無意識のうちに、
そういったものを欲しがる習癖を利用したのである。
さすがに悪用される危険性もあり、
そういった広告は禁止されたが、
存在しない空間を想像で繋いだり、
存在する物を勝手に消してしまうという人間の能力は、
人間の生命活動にとって必要不可欠な能力に違いない。
それはしかし同時に、
多くの誤認錯誤を犯す危険性も内蔵しているのである。
いずれにせよ、
フラッシュバックや摺り込みといった情報操作によって、
人は簡単に騙されてしまうという、
実に脆弱なアナログ脳の持ち主であることは確かである。
こういった脳の脆弱さを私達はしっかり認識し、
現代のようなディジタルに氾濫する情報社会の中では、
情報をしっかりと主客選択し、
惑わされないよう注意する必要があるのかも知れない。

0 件のコメント:
コメントを投稿