2009年5月24日日曜日

生きている実感

人の存在そのものを証明することは、

ディジタルの点と点の間の存在を証明するのと同じで、

在るといえば在るような、

無いといえば無いような、

といったところで、

存在そのもの自体の証明には困難を伴う。

 

そこでまず、

人は現実に存在しているというところから、

今日は話を進めたいと思う。

その生きて存在しているという実感を、

人は何時どういった場で感じることが出来るか。

 

人は日常生活がスムーズに進行している中では、

自分の存在を問いかけるようなことは余りしない。

そんな暇はないというのが本当のところではないだろうか。

しかし一度躓いたり、壁に当たったりした時、

一体自分は必要とされているのだろうか?とか、

役に立つ存在なのだろうか?

或は自分の存在が本当に人の役に立っているのだろうか?

などといった思いに苛まれてしまう事がある。

 

よく人間は感情の生き物であるといった表現が遣われる。

確かにそういった側面がある事は否定できない。

喜怒哀楽といった言葉も、

そういった人間の生態を的確に表している。

 

私はそれと同時に人は感性の生き物でもあると思っている。

論理的に自己の証明が出来なくても、

自分の存在は個々人が感性で認識し、

日常の中でその存在を疑うような事はしない。

感性といっても脳が認識していると仰るかもしれない。

確かにそれは否定できないが、

自己の存在認識が脳単独で処理できるかといえば、

それは違うといわざるを得ない。

 

人体に備わった様々な諸器官が外部の刺激に反応し、

その刺激を最終的に判断するのは脳かもしれない。

しかし刺激を受けそれを伝えるのは、

決して脳だけで処理出来るわけではない。

認識の全ての処理が脳によってなされるというのは

サッカーを、

レフリーだけでも出来るといっているようなものである。

 

そういった意味で、

人は外部からの刺激を様々な器官が捉え、

その刺激を総合的に脳が選別して、

その刺激がどういった種類かを判断する。

そういった過程の中で、

人それぞれの認識の差や違いが生じる。

そういった差が個性となって現れたり、

癖と表現されたりするのではないだろうか。

 

人はこういった具合に、

様々の諸器官と脳との連携によって、

ほとんど無意識に自分を存在しているものと認識している。

生物学的には人は自らの肉体を形成するにあたって、

ミトコンドリアという微生物の力を借りている。

というより肉体は多くのミトコンドリアによって支えられている、

といっても差し支え無い環境なのである。

そうなるとこういった微生物や、

腸内に存在する数兆ともいわれる菌類もそういった、

自己認識の判断に手を貸している事になる。

もうこうなると人を唯物論的にその存在を証明することは、

宇宙の存在を証明するに等しく、

ほとんど不可能といって差し支えあるまい。

それでも人は自己を認識しているのである。

 

ところが何かに躓いたり、壁に当たったりというように、

思考や認識の流れの中に阻害要因が入ると、

人は途端に自分の存在に疑問を抱いてしまう。

必要な存在か、役に立っている存在か?・・.

この作業は存在の論理的確認というより、

自己の日常的な認識行程の確認といった、

もっと自己を感性で把握しようとする、

総合的な自己認識作業といえる。

そしてその作業を害する最も危険な存在は、

無用の者、役立たずといった、

その人間を社会的に否定するような表現である。

 

そういった言葉は確かに、

個人の存在そのものを否定するわけではない。

しかし、日常的な作業の中で、

自己の存在を感性的に把握している人間にとっては、

その個人の全ての感性を否定される行為に等しいのである。

それを云われた人間にとっては、

具体的に自己の社会的な存在意味を否定されるという、

生きる上で致命的なダメージに繋がりかねない表現といえる。

 

そういった意味で、

人は必要とされる、或は役に立っているといった、

相関的な感性の交流によって得られる充足感によって、

日常の中では生きている実感、

あるいは存在している実感を獲得しているのである。

 

結論として、人は日常での中では、

自己の唯物的な存在そのものより、

周囲との関わりによって自己の存在を認識し、

その存在認められ必要とされるという充足感を得る事こそが、

人にとっての自己存在の証明そのものであり、

自分が生きている実感を認識できる、

最も重要な要素といえるのではないだろうか。

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