2009年5月23日土曜日

教鞭を執る

初めに昨日書いた57才限界説を訂正する。
あれは1957年以前に生まれた方が、
新型インフルエンザの抗体を持っている、
というのが正しいようである。
新型なのにとちょっと不可解な話だが、
アメリカではこういった情報が既に流されている。

さて本題に入ろう。
少し前のイギリスの少年向け映画の中では、
よく生徒が鞭打たれるシーンがあった。
生徒によっては鞭打たれることを納得している子もいれば、
只恐れ戦く様子の子もいた。
当然強権を発して暴力で制裁を下す教師に、
憎しみを抱くような生徒の存在も描かれていた。

しかしお多くのシーンでは、
なぜそういった事態に至ったかが、
かなり克明に描かれ、
まだ少年だった私にも、
その鞭打ちが良い変わるいかは別にして、
罰として説得力ある鞭打ちに思えた。

翻って日本の教師の生徒に接する態度を見る時、
そのあまりの違いに何度となく落胆したものだった。
今にして思えば映画と現実である。
イギリス人だけが奇麗ごとで済まされているわけはない。
しかし少年にとって、
この描かれたイギリス映画の教育現場と、
日本の小中学校の現実との社会背景の違いを、
冷静に分析できるはずもなかった。

どうして日本の教師は、
成績のふるわない生徒や、
自分の思い通りにならない生徒ばかりを、
目の敵にするのだろう。
それに比して、
成績優秀な子供が少々悪さをしても、
笑って怒る振りをしたり、
拳骨で触るような怒り方はすることがあっても、
他の子供たちとは明らかに異なった態度で接する。

高校に至っては、
担当の教師がクラスの生徒達に向かって、
そのうち君たちが卒業して自分達よりも、
偉くなって戻って来るかも知れないから、
おいそれと怒れないというようなことを、
冗談を交えながら話したこともあった。

それにしてもイギリス映画で描かれる教師と、
日本の教育の現場で拘る教師との、
その品位においてのギャップの余りにも大きな落差に、
少年ながら失望することが多々あったのは事実である。

イギリス映画のそういったシーンは、
おおむね寄宿学校の生徒と教師の関係が、
対象であったように記憶している。
教師と生徒との信頼関係が克明に描かれる中で、
決してそういった教師とは、
馴染めない悪意の生徒の存在も描かれていた。
そういった中で感心したのは、
背筋を伸ばし毅然とした教師の振る舞いでもだが、
教師と生徒の立場のはっきりした違いであった。

階級制の厳しい時代のイギリス社会を描いた作品であり、
今思えば当然そういった背景があって映像と判るのだが、
当時はそういった社会背景よりも、
大人達の毅然として生徒に接するその姿勢に、
憧憬を抱いたものだった。

翻って我が環境を見た時、
教師達からはそういった権威も感じなければ、
畏怖心というものも全く感じられなかった。
当然といえば当然かもしれない。
当時の日本は敗戦後の混乱状態の中で、
教師達自身がどういった教育を理想とすべきか、
暗中模索の時代だったのである。

しかしもうその頃から、
体罰に対しては様々なクレームが上がっていた。
それでもマンモス中学に在籍していた頃、
なぜか暴力対策用の教師の存在が有名であった。
中学の中に暴力集団のようなものが出来、
その対抗処置として、
そういった教師が赴任していたのだった。

最近よく接するのは、
暴力反対を美旗のように掲げる社会現象である。
教師達もそういった環境の中で、
必要以上に神経質になり、
ノイローゼになってしまう者さえいるようである。

中には暴力を使えない教師に対して、
それを良いことに子供達がのさばり、
収拾がつかなくなるクラスの存在もあるという。
果たして教師の体罰をも含めた全ての暴力が、
かくも否定されなければならない行為なのだろうか。
私はそうは考えない。

教鞭につくという言葉がある。
子供を教育するには鞭が必要と、
この言葉は明らかに説明しているのである。
鞭のない教育環境は、
獣に知識を与えてしまうような、
恐ろしい環境とも例えられるのである。

家庭でことの善悪の躾をされていない子供達は、
見方によっては知能の高い猿と同じ次元で、
自らを律する事無く、
欲望の赴くままに生きているのである。
ひったくりや振り込め詐欺の多発は、
そういった獣達に要らぬ智慧を授けたが故の、
当然の結果といえなくもない。

鉄は熱いうちから打てという諺のごとく、
子供はなるべく早い時期に、
ことの善悪を教え込む為にも、
鞭で打つという罰を与える教育方法も、
時と場合により必要ではないかと思うのだが・・・。

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