初めに昨日書いた57才限界説を訂正する。
あれは1957年以前に生まれた方が、
新型インフルエンザの抗体を持っている、
というのが正しいようである。
新型なのにとちょっと不可解な話だが、
アメリカではこういった情報が既に流されている。
さて本題に入ろう。
少し前のイギリスの少年向け映画の中では、
よく生徒が鞭打たれるシーンがあった。
生徒によっては鞭打たれることを納得している子もいれば、
只恐れ戦く様子の子もいた。
当然強権を発して暴力で制裁を下す教師に、
憎しみを抱くような生徒の存在も描かれていた。
しかしお多くのシーンでは、
なぜそういった事態に至ったかが、
かなり克明に描かれ、
まだ少年だった私にも、
その鞭打ちが良い変わるいかは別にして、
罰として説得力ある鞭打ちに思えた。
翻って日本の教師の生徒に接する態度を見る時、
そのあまりの違いに何度となく落胆したものだった。
今にして思えば映画と現実である。
イギリス人だけが奇麗ごとで済まされているわけはない。
しかし少年にとって、
この描かれたイギリス映画の教育現場と、
日本の小中学校の現実との社会背景の違いを、
冷静に分析できるはずもなかった。
どうして日本の教師は、
成績のふるわない生徒や、
自分の思い通りにならない生徒ばかりを、
目の敵にするのだろう。
それに比して、
成績優秀な子供が少々悪さをしても、
笑って怒る振りをしたり、
拳骨で触るような怒り方はすることがあっても、
他の子供たちとは明らかに異なった態度で接する。
高校に至っては、
担当の教師がクラスの生徒達に向かって、
そのうち君たちが卒業して自分達よりも、
偉くなって戻って来るかも知れないから、
おいそれと怒れないというようなことを、
冗談を交えながら話したこともあった。
それにしてもイギリス映画で描かれる教師と、
日本の教育の現場で拘る教師との、
その品位においてのギャップの余りにも大きな落差に、
少年ながら失望することが多々あったのは事実である。
イギリス映画のそういったシーンは、
おおむね寄宿学校の生徒と教師の関係が、
対象であったように記憶している。
教師と生徒との信頼関係が克明に描かれる中で、
決してそういった教師とは、
馴染めない悪意の生徒の存在も描かれていた。
そういった中で感心したのは、
背筋を伸ばし毅然とした教師の振る舞いでもだが、
教師と生徒の立場のはっきりした違いであった。
階級制の厳しい時代のイギリス社会を描いた作品であり、
今思えば当然そういった背景があって映像と判るのだが、
当時はそういった社会背景よりも、
大人達の毅然として生徒に接するその姿勢に、
憧憬を抱いたものだった。
翻って我が環境を見た時、
教師達からはそういった権威も感じなければ、
畏怖心というものも全く感じられなかった。
当然といえば当然かもしれない。
当時の日本は敗戦後の混乱状態の中で、
教師達自身がどういった教育を理想とすべきか、
暗中模索の時代だったのである。
しかしもうその頃から、
体罰に対しては様々なクレームが上がっていた。
それでもマンモス中学に在籍していた頃、
なぜか暴力対策用の教師の存在が有名であった。
中学の中に暴力集団のようなものが出来、
その対抗処置として、
そういった教師が赴任していたのだった。
最近よく接するのは、
暴力反対を美旗のように掲げる社会現象である。
教師達もそういった環境の中で、
必要以上に神経質になり、
ノイローゼになってしまう者さえいるようである。
中には暴力を使えない教師に対して、
それを良いことに子供達がのさばり、
収拾がつかなくなるクラスの存在もあるという。
果たして教師の体罰をも含めた全ての暴力が、
かくも否定されなければならない行為なのだろうか。
私はそうは考えない。
教鞭につくという言葉がある。
子供を教育するには鞭が必要と、
この言葉は明らかに説明しているのである。
鞭のない教育環境は、
獣に知識を与えてしまうような、
恐ろしい環境とも例えられるのである。
家庭でことの善悪の躾をされていない子供達は、
見方によっては知能の高い猿と同じ次元で、
自らを律する事無く、
欲望の赴くままに生きているのである。
ひったくりや振り込め詐欺の多発は、
そういった獣達に要らぬ智慧を授けたが故の、
当然の結果といえなくもない。
鉄は熱いうちから打てという諺のごとく、
子供はなるべく早い時期に、
ことの善悪を教え込む為にも、
鞭で打つという罰を与える教育方法も、
時と場合により必要ではないかと思うのだが・・・。

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