2009年5月29日金曜日
Y 遺伝子
ニューヨークで実際に遭遇した話である。 ほぼ十年余り前、 妻はニューヨークのとあるギャラリーで個展を開いた。 まだ9.11より数年前の事で、 街の要所要所にはポリスが二三名常に駐留していて、 日中の治安はとても良かった時代である。 ギャラリーはカーネギーホールの真向かいにあり、 ちょっと足を伸ばせば、 セントラルパークも散歩できるロケーションで、 二週間の個展の間、 サポーターのわたしは、 主催者である妻をギャラリーに残し、 暇を見てはあちらこちらを散策して歩いたのだった。 ちょうど季節は秋で、 通りを抜ける風は涼やかに乾いて心地よく、 セントラルパークの一帯は、 落ちた広葉樹の葉が重層に重なり、 まるで黄金色の絨毯を敷き詰めたようなその風情は、 輝く季節の喜びを演出しているようだった。 個展の二日目、 やけにパトカーが騒がしい。 何事かと問えば、 目の前のセントラルパークで、 実は昨晩、殺人事件が発生したという話である。 そして誰もの口をついて出る言葉は、 いくら治安が良くなったとはいえ、 女性一人でセントラルパークをジョギングなんて、 そんな行為は狂気の沙汰だと・・。 そして更に、 こうした事件は決して珍しくも何ともないのだと・・。 ほとんど毎日のように、 死者こそ出ないが起こっているのだと・・。 何せ78歳の老婆でも・・とまでの話は、 事件の当日という事もあり、 冗談好きのニューヨーカーからも聞かれなかったが、 殺された女性に同情する様子は全く感じられなかった。 自己責任の国アメリカならではの反応と納得はできたが、 同時に夜のセントラルパークが危険である事を承知で、 それでもジョギングするからには、 その女性にも何かしらの意図があっての事と、 誰もが言外に臭わすシビアーな反応にも、 確かに日本とは基本的に異なる文化とは思ったが、 それほど冷淡といった印象にも感じられなかった。 話はしかしこの事件のことではない。 二週間という個展の開催期間は意外に長く、 途中ニューヨークマラソンが入っていたが為に、 宿泊したホテルでちょっとしたトラブルにも遭遇した。 予約はエイジェントが間違いなく確保していたのだが、 こういった込み合った場合、 部屋の確認作業が改めて行なわれたのだった。 我々は長期滞在のため、 かなり大きめの部屋を確保していた。 ホテル側の狙いは、 出来れば小さい部屋へ移動させたかったようである。 再度のパスポートと、 予約カードの提出を求められた。 エイジェントに連絡するのも面倒で、 パスポートと予約カードにチップを挟み提出すると、 全て何事もなかったかのように、 フロンの担当者はウエルカムと微笑んだが、 日本では考えられない文化の違いを、 強く感じた一瞬だった。 アメリカ人にとって、 染色美術という耳慣れない分野の個展だったが、 初日のセレモニーで琴の演奏があった事も手伝ってか、 当地のタブロイドにも取り上げられ、 予想したより多くの来場者に恵まれた。 以外だったのは、 来場者の半分近くはニューヨーク在住の日本人で、 和装の女性が目立った割に彼らのほとんどが、 ろうけつ染めといった趣味の染め付けの世界は知っていても、 タブローに描かれたロウ染め絵画の存在を、 まるで知らなかった事である。 その意味でも、 彼女がニューヨークまでわざわざ出向き、 個展を開催した意味はあったと思ったが、 その来場者の中に、 他人のそら似と見紛うばかりの人物がいた。 その相手は数年前、 52歳で早世したわたしの兄の姿であった。 彼の立ち居振る舞いが、 いかにも兄と瓜二つなのである。 妻もそのあまりの相似形に驚き、 その理由を説明した上で、 彼の出身地を尋ねたのだった。 彼の出身地は九州でこちらは東北と知り、 初めは真っ赤な他人かとがっかりしたのが、 話を辿るうちに、 彼の一族とこちらの一族との繋がりが、 次第に解き明かされる事となったのだった。 六百年以上も前に、 北と南とに分かれた遺伝子が、 このニューヨークで出会った・・・。 わたしは男子一系などといった事は、 余り信じてはいなかったが、 確実に男系にだけは伝わるというY遺伝子の存在を、 この時ばかりは認めざるを得なかった。 それほど彼の存在はわたしの兄に、 その立ち居振る舞いといい、 くぐもった声の音調といい、 余りにも相似的だったのである。 Y染色体の遺伝子が一体何を運ぶのか、 実のところわたしも詳しくは知らない。 しかも次第に影の薄い存在になりつつあるとも伝えられる。 そのY遺伝子から、 わたしはニューヨークで、 思いがけない贈り物を貰ったのかもしれない。
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