2009年5月20日水曜日

偶像崇拝

捕まえた相手がキリスト教やユダヤ教徒の場合、

人質にするがいい。

しかしその相手が仏教徒の場合、

直ぐに殺してしまえ。

イスラムの戦士にはこういった不文律があったと聞く。

 

真実の程は定かではないが、

この話を裏返すと、

仏教徒は人命より金品の方を大事にする。

そう思われていた節がある。

何とも悲しいというか情けない姿に、

仏教徒は見られていたのだろうか・・。

 

しかしこの話を耳にした時、

少年だった私でもあながち嘘とは思えなかった。

もう日本軍の特攻隊や玉砕の話を、

既に知っていたからかもしれない。

 

それから暫くたってからだと思うのだが、

イスラム教もキリスト教も、

信仰の対象は教義であり教典である。

しかし仏教は偶像崇拝だから、

宗教としては蔑まれている存在なのだ知った。

 

その話を聞いて納得したわけではなかったが、

自身の中で、

自分が仏教徒であることを、

何となく後ろ暗く思ってしまった経験がある。

 

こういった話が額面通りではないと、

仏教を少しでも拘ったことのある人間なら、

主張したいのだが、

これまで接したお寺や僧侶の行動様式を考えると、

どうしても腰が引けてしまう。

 

何しろ先の大戦で、

人間魚雷や玉砕、はては特攻隊まで、

軍隊のやった行為は人命軽視そのものである。

捕虜にしようにも、

相手が死ぬ気で掛かって来るのでは対処のしようがない。

しかも、捕虜にしても組織がそういった人間の存在を、

生きていると認めない。

ならば殺してしまえ!の理屈が通るのも、

致し方ないと云わざるを得ない。

 

何とも恥ずかしい話だが、

この神風特攻隊は神話というヴィルスとなって、

イスラム過激派に伝染している。

これはイスラムだって人命を粗末にしているといった、

些末な問題ではない。

そのヴィルスの発生源はこの日本に、

人命が爆弾を運ぶ機械と同等に扱われた、

この仏教国のおぞましい歴史に存在するのである。

 

日本人だけの特異な体質なのかどうかは判らないが、

臭い物には蓋をという諺がある。

見ざる云わざる聞かざるも似たようなものであり、

神社での厄払いも同様の性癖かもしれない。

 

こうして神仏に頼り、

嫌なものや危険なものから我が身や一族を、

遠ざけ危難を避けようとする体質がある。

 

これは争いを避ける為の智慧であると同時に、

社会全体を外側から見ると、

不透明で分かり難い環境にしてしまう。

支配者たちがこういった体質を、

巧みに利用しようと考えるのはごく当然である。

 

道祖神といった土着的な地域信仰の上に、

仏教の偶像崇拝をなぞらえることによって、

住民の目線を上に向かわせ、

その隙に足元を封建的な階級社会で、

雁字搦めにしてしまったのである。

 

神社やお寺の寄付金徴収の作法には、

未だにその後遺症が色濃く残っている。

偶像を利用して宗教を広めるのは、

何も仏教ばかりではないと、

主張する方がおられるかもしれない。

 

確かに日本ではキリスト教も、

マリア像を崇め信仰の対象とした歴史がある。

それが故の踏み絵といった、

悲惨な殺戮の歴史までもが残っている。

 

こう話が進んで来ると、

どうやら仏教が偶像崇拝というのではなく、

日本人が生来に持っている、

土着的な地域信仰である偶像崇拝が、

命を粗末にする体質を生む全ての元凶のように思えて来る。

 

だが一時期とはいえ、

この日本が物質至上主義に踊る現代社会の、

世界の寵児のような存在になったのも、

こういった偶像崇拝に頼る体質が、

過大に寄与しただろうこともあながち否定できない。

 

しかしこういった精神構造は実に脆弱である。

物に捕われ物に振り回されるという、

実に心もとない社会構造を生み出している。

こういった社会では、

人の心は恒常的に不安定な環境に置かれる。

 

そこで宗教が重要な役割を果たさねばならないのだが、

権力者の尻馬に乗って、

偶像崇拝を道具にしてきた日本の仏教には、

はっきり言ってその力はない。

 

グローバリゼーションといわれる現代。

そろそろ仏教も、

偶像崇拝で利権を嘗めるような環境から足を洗い。

この惑わしき日本国民の為に、

仏教も神道も全てを纏め上げるような、

広大で安定した教義を掲げる宗教に、

衣替えするくらいの気構えはないものかと、

一仏教徒に過ぎない私はささやかながら願うのだが・・・。

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