捕まえた相手がキリスト教やユダヤ教徒の場合、
人質にするがいい。
しかしその相手が仏教徒の場合、
直ぐに殺してしまえ。
イスラムの戦士にはこういった不文律があったと聞く。
真実の程は定かではないが、
この話を裏返すと、
仏教徒は人命より金品の方を大事にする。
そう思われていた節がある。
何とも悲しいというか情けない姿に、
仏教徒は見られていたのだろうか・・。
しかしこの話を耳にした時、
少年だった私でもあながち嘘とは思えなかった。
もう日本軍の特攻隊や玉砕の話を、
既に知っていたからかもしれない。
それから暫くたってからだと思うのだが、
イスラム教もキリスト教も、
信仰の対象は教義であり教典である。
しかし仏教は偶像崇拝だから、
宗教としては蔑まれている存在なのだ知った。
その話を聞いて納得したわけではなかったが、
自身の中で、
自分が仏教徒であることを、
何となく後ろ暗く思ってしまった経験がある。
こういった話が額面通りではないと、
仏教を少しでも拘ったことのある人間なら、
主張したいのだが、
これまで接したお寺や僧侶の行動様式を考えると、
どうしても腰が引けてしまう。
何しろ先の大戦で、
人間魚雷や玉砕、はては特攻隊まで、
軍隊のやった行為は人命軽視そのものである。
捕虜にしようにも、
相手が死ぬ気で掛かって来るのでは対処のしようがない。
しかも、捕虜にしても組織がそういった人間の存在を、
生きていると認めない。
ならば殺してしまえ!の理屈が通るのも、
致し方ないと云わざるを得ない。
何とも恥ずかしい話だが、
この神風特攻隊は神話というヴィルスとなって、
イスラム過激派に伝染している。
これはイスラムだって人命を粗末にしているといった、
些末な問題ではない。
そのヴィルスの発生源はこの日本に、
人命が爆弾を運ぶ機械と同等に扱われた、
この仏教国のおぞましい歴史に存在するのである。
日本人だけの特異な体質なのかどうかは判らないが、
臭い物には蓋をという諺がある。
見ざる云わざる聞かざるも似たようなものであり、
神社での厄払いも同様の性癖かもしれない。
こうして神仏に頼り、
嫌なものや危険なものから我が身や一族を、
遠ざけ危難を避けようとする体質がある。
これは争いを避ける為の智慧であると同時に、
社会全体を外側から見ると、
不透明で分かり難い環境にしてしまう。
支配者たちがこういった体質を、
巧みに利用しようと考えるのはごく当然である。
道祖神といった土着的な地域信仰の上に、
仏教の偶像崇拝をなぞらえることによって、
住民の目線を上に向かわせ、
その隙に足元を封建的な階級社会で、
雁字搦めにしてしまったのである。
神社やお寺の寄付金徴収の作法には、
未だにその後遺症が色濃く残っている。
偶像を利用して宗教を広めるのは、
何も仏教ばかりではないと、
主張する方がおられるかもしれない。
確かに日本ではキリスト教も、
マリア像を崇め信仰の対象とした歴史がある。
それが故の踏み絵といった、
悲惨な殺戮の歴史までもが残っている。
こう話が進んで来ると、
どうやら仏教が偶像崇拝というのではなく、
日本人が生来に持っている、
土着的な地域信仰である偶像崇拝が、
命を粗末にする体質を生む全ての元凶のように思えて来る。
だが一時期とはいえ、
この日本が物質至上主義に踊る現代社会の、
世界の寵児のような存在になったのも、
こういった偶像崇拝に頼る体質が、
過大に寄与しただろうこともあながち否定できない。
しかしこういった精神構造は実に脆弱である。
物に捕われ物に振り回されるという、
実に心もとない社会構造を生み出している。
こういった社会では、
人の心は恒常的に不安定な環境に置かれる。
そこで宗教が重要な役割を果たさねばならないのだが、
権力者の尻馬に乗って、
偶像崇拝を道具にしてきた日本の仏教には、
はっきり言ってその力はない。
グローバリゼーションといわれる現代。
そろそろ仏教も、
偶像崇拝で利権を嘗めるような環境から足を洗い。
この惑わしき日本国民の為に、
仏教も神道も全てを纏め上げるような、
広大で安定した教義を掲げる宗教に、
衣替えするくらいの気構えはないものかと、
一仏教徒に過ぎない私はささやかながら願うのだが・・・。

0 件のコメント:
コメントを投稿